余市町でおこったこんな話 その124「『緋の衣』の命名」
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「つるべ落としに北国の秋が去ろうとする頃赤羽源蔵の緋衣が6つばかり、金子安蔵の国光が7つほど乙女が恥らうように葉の間から色付いた姿を見せた。人々はこれが役人の言った滋味にして栄養豊富な珍果リンゴと言うものかと木の元に集まった。」(「実ったリンゴ」『年表 余市小史』)
余市の名産として有名になった「緋の衣」ですが、最初からの名称ではなく、19号と番号で呼ばれていました。昭和のはじめ頃には、産額がもっとも多かったのは紅玉(6号)、緋の衣(19号)、国光(49号)、鶴之卵(33号)、黄龍(72号)などがありました(『余市町郷土誌』)。
緋の衣の原種名は明治時代の記録によって違っていて、『余市町郷土誌』では原種名が「キングオブトムアーワンテー」、『西洋果樹種類簿』では「キン」、『果樹栽培心得』では「King of Tompkins County(キングオブトンプキンスカウンティ)」という名前でした。写真の余市リンゴのラベルでは「KING OF TOMPKINS CAUNIY」のスペルが見えます。
明治5(1872)年、北海道開拓使はアメリカミシガン州からリンゴ、西洋ナシ、ブドウなどの果樹の苗を輸入し、東京の青山官園から七飯開墾場(官園)に移され、その後同8年に札幌、有珠、余市など道内各地に苗木を無償で配布しました。リンゴの苗が余市に配布された同8年の記録では、リンゴと洋ナシあわせて1,560本というものがあります(『余市農業発達史』)。
開拓使が輸入したリンゴの種類は、アメリカ原産種が32種、フランスが12種、ロシアが12種などで計75種と伝わりますが(『果樹栽培心得』)、すべてに番号が付されていました。しかも開拓使が輸入した際の番号と、東京から北海道に送った際の番号が違っている場合もあって、生産の現場は混乱しました。
東北地方でも同じ状況で、明治20年代の盛岡地方でも原種名がはっきりしているのは1、2種で、同じ種類のリンゴが各地で異なる名前がつけられたり、また英語の原種名のままでも困るという理由で、関係者が集まって統一した名前を決めようとする機運が高まりました。
リンゴの名称統一を目指した最初の会議、苹果名称選定会(別名、帝国苹果名称選定会)は、第三回奥羽三県連合共進会開催と共催で、明治27年5月7日から9日まで仙台市で行われました。2回目が同年11月に北海道で、3回目が翌28年11月に盛岡市で、4回目が29年11月に山形県で行われ、最終的に55種の名称が決まり、一応の決着を見ました。
19号が「緋の衣」の名称に統一されたのは3回目の会議の時でした。それまでは山形県でも19号が緋の衣の名称で通用していましたが、同じリンゴでも青森県津軽地方では「松井」の名前でした(『青森県りんご百年史』)。
この会議の少し前の明治24年、北海道果樹協会が誕生し、翌年には第1回果実品評会が開かれました。明治30年代の余市町ではリンゴの栽培面積が増大し、大規模果樹園を経営する人も多くなり、前掲の『余市農業発達史』によると緋の衣の評判がもっともよく、高値で取引されていたそうです。
大正10(1921)年には余市町に、「北海道余市緋ノ衣連合会」が結成され、地元特産のリンゴの販路拡大が目指されました。
写真:余市名産リンゴのラベル(時期不明)
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