余市町でおこったこんな話 その116「北洋漁業」

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明治末以降、余市町から北洋(樺太、沿海州、カムチャッカ)へ出漁する漁業者や、雇われて出稼ぎをする人たちがいました。大正時代、梅川町のある漁家の主人は、地元の建網漁に雇われて働いた後、すぐに北洋へ出稼ぎをして、刺網漁の不漁で出来た借金を返済しました(『余市町梅川第二区会四十周年記念史別冊』)。
日本人による北洋への出漁は、明治以前からの樺太(サハリン)沿岸漁業に始まります。明治8(1875)年の樺太・千島交換条約により日本は樺太(サハリン)の領有権を放棄しますが、カムチャッカ地方の漁場を拡大させ、漁業権をめぐって日本とロシアは対立しました。日露戦争により明治38年に日本は樺太全島を占領、同年、南樺太が日本領となります。明治40年の日露漁業協約締結後は、日本海、オホーツク海、ベーリング海の沿岸の漁業権は日本のものになりました。
日本からの漁船団がロシア領海などで対象とした魚は、最初、オホーツク海などのニシンでしたが、漁場が拡大するにつれてカムチャッカ半島の西岸沖と同半島突端からアリューシャン列島南の沖合い漁場のサケ、マス、さらにはカムチャッカ半島西岸沿いと同海北西沿岸のタラバガニも多く漁獲されました。
余市町の大漁家だった猪俣家は明治から大正にかけて、カムチャッカでのサケマス漁を経営していました(『猪俣家小伝』)。同書によると猪俣家の建網漁場は西カムチャッカで、漁夫は北海道出身者が30名、富山県新湊出身者20名の50名ほどで操業していました。運搬用に向かった持ち船は西洋型帆船の金比羅丸と共栄丸で、現地で漁獲物を塩蔵後、小樽まで運搬して販売しました。
同書には、現地でのサケ漁に従事した漁夫の体験談が見えます。「…七月十日過ぎまでに網をかけ、七月末から最盛期に入る。…水面は魚で魚で雨が降っているようになる。櫓をこぐとゴツンゴツンと魚に当り、波の中を透かしてみると、ウジャウジャいます。最盛期の若ものは二時間ぐらいしか眠られない… 」
『北海タイムス』にも、北洋のサケ漁の漁夫を取材した記事があります。「… 朝は三時から夜は十一時まで照る日、曇る日、間の抜けた鮭の顔と顔を突き合はせて働かねばならぬ彼らである。…(中略)…夜十一時に仕事を終っても、めしを食ったり湯に入ったりすると早や十二時、横になったと思うと叩き起こされる。これじゃ夢を見る間もありません。」
大正時代にピークを迎えた余市町のニシンでしたが、昭和になって不漁が続くと北千島(千島列島のウルップ島以北)に出漁した漁家がいました。写真に見える魚はニシンのようですが、『北のロマン』に掲載された北洋漁業に関する記載では、昭和15(1940)年頃に余市町奥寺家が「北海道漁業連合会」からの「嘱託」で北千島に出漁し、サケ、タラを漁獲したとあります。
北洋漁業と聞くと、多くは過酷な労働現場だったといわれますが、この写真は明るい日差しの中で働く人の笑顔も見え、のどかな空気が伝わります。

写真:北千島でのニシン漁(時期不明:奥寺家)

写真:北千島でのニシン漁(時期不明:奥寺家)

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