余市町でおこったこんな話 その115「大日本果汁株式会社の誕生」
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「わがスコットランドに四十年前、頭のよい日本の青年がやってきて、1本の万年筆とノートで英国のドル箱であるウイスキー造りの秘密を盗んでいった…」昭和30年代末、英国のヒューム首相が来日した際、当時の池田勇人首相にニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝さんを評して、こう話したと言われています (『ヒゲのウヰスキー誕生す』 ほか) 。
竹鶴政孝さんは、大正時代に英国スコットランドでウイスキー製法を学んだはじめての日本人であり、ニッカウヰスキー創業前にサントリーの山崎蒸留所の設立も手がけ、国産ウイスキーの父と呼ばれています。
竹鶴さんは、明治30(1894)年6月、広島県竹原市の造り酒屋に生まれました。池田首相と竹鶴さんは同郷の友人でしたので、前述のエピソードは竹鶴さんが直接、池田首相から伝えられたお話かもしれません。
竹鶴さんのお兄さん2人は家業を継がなかったので、家業を継ぐために大阪高等工業学校(後の大阪大学)で醸造学を学びました。大正5(1916)年3月、卒業試験を終えたその足で、22歳の竹鶴さんは大阪市住吉区にあった洋酒製造会社の摂津酒造を訪れました。そこではじめて会った大学の同窓の岩井常務に、その年12月の徴兵検査までの8か月間の入社をお願いしました。社長の阿部喜兵衛さんは、日本酒ではなく洋酒に興味を持った理由を尋ねました。 「それは…新しい酒やからです。学校でしてきた醸造の勉強を、洋酒造りで実地に試してみたい思うたからです。」突然訪れた青年の入社は阿部社長の即断で決まり、翌日から働くことになりました(前掲書)。この決断が、竹鶴さんのその後の人生を決めることになりました。
月日はあっという間に過ぎ、徴兵検査を受ける12月になりました。検査時に提出された書類に、竹鶴さんが火薬製造に必要なアルコール製造に携わっている記載があるのを見た検査官は、竹鶴さんの徴兵を見送りました。柔道で鍛えたからだは当然合格のはずでしたが、摂津酒造でアルコール製造の技師だったことが幸いしました。
その後竹鶴さんは、大正7年から同9年までの摂津酒造によるスコットランド派遣でウイスキーづくりを学んで帰国、同12年からの寿屋時代を経て昭和9(1934)年に大日本果汁を設立します。寿屋時代からウイスキーづくりの理想の地として北海道を考えていましたが、寿屋時代にはその夢はかないませんでした。
40歳になった竹鶴さんは、加賀証券の加賀正太郎さんらによる資金援助を得て北海道に工場用地を探しました。用地決定にあたって竹鶴さんが昭和2年に記したノートがあります。そこには空知管内江別を第一候補に挙げ、原料や燃料の大麦、石炭、草炭(ピート)、酵母の入手が容易であり、気候が寒冷であること、石狩川の水、札幌市との距離、工場から出る廃液の処分といった8つの選定理由を述べています。
その後、竹鶴さんは工場用地を江別ではなく余市に「ためらうことなく決め」ました (『ウイスキーと私』)。その理由は、地元の酒造家で資本家でもあった但馬家による誘致もありましたが、江別の各条件を満たすことに加えて、果汁の原料となるリンゴの名産地であること、現在のニッカウヰスキーがある余市駅前の敷地が工場用地として確保できたことがありました。
写真:大日本果汁株式会社 創立当時の事務所(『竹鶴リタ物語』より)
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