余市町でおこったこんな話 その87「ブドウ(その2)」
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余市町大浜中で本格的にブドウ栽培が始まったのは、大正10(1921)年頃からでした。
『登郷土誌』ではそれよりも少し早い明治末頃に、およそ1ヘクタールにデラウェアが栽培されていたという記録が見えます。また梅川地区でも昭和のはじめから栽培がされていて、品種はデラウェア、キャンベル、ナイヤガラなどでした(『余市町梅川第二区会 四十周年記念史』)。
昭和7(1932)年の余市町における果実別の収穫高は、リンゴが断トツ首位の1,671,790貫(1貫は3.75キログラム)、次いでブドウが同46,200貫、ナシ(洋ナシと和ナシ合算)が約19,000貫となっています(『余市町郷土誌』)。
ブドウの苗木の入手先は当時、後志管内でもっともブドウ栽培が盛んだった前田村(現共和町前田)からの人が多かったようです。『大浜中の百年』に見える回顧談に、それまで軌道に乗っていたスイカ栽培から、ブドウへと替えていった川田さんのお話があります。「スイカのよい大浜中でしたが、苗床へ直播したので、春先の強い風が吹くと砂が飛んで若芽をうずめてしまうのです。…(中略)…風砂で苦労するので、何かよいものはないかと考えたあげく、ブドウ作りを始めました。その頃の余市ではあまり作っていませんでした。…私はキャンベルスとデラウェアの消毒済みの苗を内地から買いました。(苗木屋が間違ったのか別の品種だったため)この株を利用して接木することにしました。」
同じく多田さんも、「(昭和十年に)山梨県までブドウ栽培の指導を受けに行きました。…(中略)…県庁の推せんで中山農園という所へ行き、北海道むきの苗木を斡旋してもらいました。ちょうどせん定期だったので、切った枝から、さし木の方法を習い、小枝を南京袋にいっぱいもらい、また苗木も三百本ほど買って帰りました。その時の苗木はナイヤとデラウェアでした。余市の気候風土を説明したら「これが適当」といって奨めてくれました。…(中略)…また現在の大山祇神社裏手に試験畑を設けて、二〇余品種を栽培したことがあります。」
こうして昭和10年頃には栽培面積が拡大していきましたが、当時の販売価格は高いものではなかったようです。ところが、時を同じくして、ブドウに多く含まれる酒石酸(特に酒石酸カリウムナトリウム)が通信等に有効であることが発見されて、第二次世界大戦中には潜水艦などの「電探」(レーダー)製造に不可欠な軍需物資として、ブドウ園から原料が大量に集められるようになります。「十一州」という銘柄のお酒を作っていた余市酒造株式会社(その23参照)が、昭和18年以降、酒造の権利を他社に譲ったために酒造りができなくなり、酒石酸製造有限会社と名を変えて、軍事用の酒石酸の製造を行いました。
『大浜中の百年』によると、ブドウが軍需作物となったことで、ブドウ農家は代金のほかに、還元用物資の配給として焼酎とブドウ酒の供給を受けることが出来ました。また、戦争が終わって食料不足の時代には、主食であるお米の増産のためにブドウ畑を減らせという命令が出たこともありました。その後、昭和25年から数年は「作っても作っても足りないほど」ブドウ栽培が好調な時代があり、「ブドウ成金」とうらやましがられた時代があったそうです。
大浜中や登、梅川など町内各地区の人々の努力や試行錯誤によって、余市ブドウは、リンゴやナシと並んで全道一の生産量を誇っています。
写真:ブドウの収穫
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