その99        献上リンゴ
 秋の味覚の季節になりました。リンゴとブドウの生産量北海道一を誇る余市町ですが、その礎は明治時代から続けられてきたリンゴ栽培だったことは誰もがご存知のことです。
 明治時代に余市リンゴを代表した緋ノ衣は、長く皇室に献上されていました。『余市農業発達史』によると、「余市リンゴのうち、緋ノ衣は、どの農家も芸術品をつくるかのように丹精した。高山は1904(明治37)年から亡くなるまで、皇室や皇族へ、毎年自分のつくった緋ノ衣を献上しつづけた。」とあります。高山吉五郎さんは、1866(慶応2)年に秋田県由利郡亀田町に生まれました(『余市町郷土誌』)。明治16年に渡道してリンゴ栽培に励み、明治30年代にはウラジオストックへのリンゴ輸出の販路を開き、北大余市果樹園の誘致にも尽力しました。
 宮内庁御用達には献上と納入があり、献上は皇室に向けて無料で送られる物で、厳正な審査を通って献上されました。複数の資料を見ると献上リンゴは、高山農園と北大余市果樹園から献上されたようです。
 北大余市果樹園は1912(大正元)年、現在地に設置されました(余市町でおこったこんな話ーその25ー)。『北海道大学農学部園芸学講座創立80周年記念誌』に献上リンゴの作業にたずさわった学生時代の思い出をつづられた方がいます。同書には、学生の実習として昭和14年の秋に行われた、献上リンゴの選果作業が詳しく書かれています。
 「(学生の)7人は、朝早い汽車で余市の果樹園に行った。作業場は果樹園の看守所に付設された八畳二間続きの日本間で」、「手はしっかり洗浄し、白衣は果樹園で用意した消毒済のものを着る。そしてマスクを渡された。」「ここでは一応予選されたものについて、専らハダニの附着に注意し、これを完全に除去する」ための作業が行われました。「ハダニが見つかると楊子の先に脱脂綿をまきつけ、或いはピンセットで脱脂綿をはさみ、これらでハダニを拭き取るのである。」
 「午前中に天皇陛下用を終り、午後からは秩父宮、高松宮、三笠宮等各公家用の選果にかかる。」
 「献上リンゴを届けるには、責任者が一緒について行かねばならない。しかもモーニングの礼装でだという。」「上野に着くと宮内省差し廻しの馬車がきていて、これで宮内省まで運ぶ。」
 同書には同年の献上リンゴの種類も見え、緋ノ衣や「旭」、「印度」など10種類のリンゴが献上されていました。北大余市果樹園の設置に先立つ明治37年の北海道果実品評会で、高山家が出品した紅玉が一等を受賞しました。これがきっかけで、高山家による献上も始まったようです。
 前掲書ほかによると、献上リンゴの梱包方法は詳しく決められていました。昭和2年の梱包要領では、外箱には縦約24p、横約7.5pの木札を下げます。木札の表には「宮内省御中」、裏には献上する者の住所と氏名を記します。
 また、中箱は献上品の種類ごとに箱に入れて釘を打って止め、金巾(かなきん)布(平織綿)かキャラコ布(インド産平織布)で包装します。消毒が終わったリンゴは一つずつ消毒脱脂綿に包み奉書紙で包装するほどの厳重さでした。品評会で広く認められた余市リンゴのブランドは、皇室献上品としても揺るぎない位置にありました。

 
    写真:献上リンゴの選果(『北海道大学農学部園芸学講座創立80周年記念誌』から)