その91       海難事故

 「シタキだ。シタキになったどぉ!」大正6(1917)年1月24日午前10時頃のことでした。その日の朝、冬には珍しいほど穏やかな日和だったのが、次第に波がうねりだして先の見えない猛吹雪に変わったのでした。朝7時頃からカレイ刺し網漁に出かけた豊浜町の人たち41名、余市町全体では72名の犠牲者を出すという痛ましい事故がありました。これは「一瞬にして死の街」と題された水難事故のお話で『余市小史』に掲載されています。「シタキ」とは突風を伴う時化、強風を伴う吹雪のことです(『北海道方言辞典』)。
 『余市漁業発達史』にはこの水難事故のほか、3件の時化による事故の記録が見られます。これが契機となって、悲惨な事故をおこさない為の余市港建設の実現が叫ばれ、国に対する地元関係者からの猛烈な請願運動が繰り広げられます。
 大正6年の水難事故の犠牲者41名の供養碑が豊浜町の墓地内にあります。『余市町の石碑』によれば、この事故の原因は、豊浜町で最も大きかった親方の別邸が上棟することとなり、その祝賀会用のカレイを獲りに出漁したためと言われているそうですが、真偽は不明です。また同年の事故と、その前後に発生した水難事故の犠牲者を追悼する観音像が、昭和44(1969)年、豊浜町に建立されました。像は海難者慰霊聖観音像と呼ばれ、発起人は豊浜町の有志で、石工は土屋正一の名前が見えます。古くは明治44(1911)年から昭和41(1966)年までにあった事故の犠牲者の慰霊のための観音様です。
 漁港建設とあわせて、水難事故による犠牲者を出さないための救助機関設立の動きが見られたのは比較的古く、明治41(1908)年のことでした。この年の元日、梶野善太郎、酒井厳三ら同志30余名が水難救助の団体「義勇団」を組織しました。大正8(1919)年の解散まで、漁船20余艘、乗組員百数十名救助の功績をあげました。同年、水難救助に必要な器具の充実を計画し、4百円(当時)をあてて16種類85点の救助道具を購入しました。
 義勇団の解散は、次に続く大日本帝国水難救済会余市救難所設立に伴うものだったようです。余市救難所初代所長は猪股安造(同14年から余市郡漁業組合組合長)、救助長滝内栄太郎、同 梶野善太郎、看守長矢原鶴三、顧問奥寺由蔵ほか4名、監督余市警察長大友時雄という顔ぶれでした。
 大日本帝国水難救済会の歴史は古く、明治19年(1886)10月、イギリスの貨物船ノルマントン号が和歌山県大島沖で座礁沈没、イギリス人乗組員は全員脱出して助かりましたが、乗り合わせていた日本人23人全員が水死しました。同20年、時の農商務大臣黒田清隆による欧州視察によってロシア水難救済会が紹介されました。これらをきっかけとして同22年11月3日、四国讃岐の金刀比羅宮で大日本帝国水難救済会が設立され、同37年、社団法人帝国水難救済会と改称、現在の日本水難救済会と続き、余市町や北海道内に救難所設立の動きが広まりました。昭和11年当時の救難所配置図のうち北海道の部分を見ると、救難所の配置が密なのは、日本海側と襟裳岬までの太平洋岸に限られていました。

 
写真:海難者慰霊聖観音像