その76       古代文字

 「北海道の古代文字」という論文があります。西田彰三さんという研究者が昭和7(1932)年に『北海道郷土研究』に発表されたもので、その冒頭は「古代文字と云へば一寸異論もある様でありますが、この方が一般に耳慣れて居る様でありますから…」で始まっています。
 一般に耳慣れているといわれた「古代文字」の呼び名は、小樽市の手宮洞窟の岩面刻画に対してつけられました。明治13(1880)年にイギリス人のジョン・ミルンが発表した「小樽および函館出土の石製品についてのノート‐日本の先史時代遺跡に関する若干の見解‐」の中で、その前々年手宮洞窟を模写したミルンが、手宮洞窟の刻画のいくつかがルーン文字の「M」に似ていると述べ、ほかにも標章、男性の象徴などいくつかの説を並べて述べています(「民族学、考古学史上における手宮洞窟」『国指定史跡 手宮洞窟 保存修理事業報告書』)。
 その後、大正時代になって民族学者の鳥居龍三や広島高等師範(現在の広島大学)の地理学者 中目覚(なかのめさとる)らが文字説を唱えます。中目は大正6(1917)年、「我兵を率い大海を渡り、この洞窟に入れり」と読めると発表し、この「我兵を率い…」が後々まで広く知られていきます。
 小樽市内の3つのお菓子屋さん、吉野屋(後の吉乃屋)さん、愛信堂さん、千秋庵さんの3店が、お菓子のネーミングの権利を巡って争っているという新聞記事が見られるのは中目さんが解読文を発表して間もない頃のことでした。
 また中目説が知られるまでは手宮洞窟の刻画は「奇形文字」と呼ばれていて、記事では千秋庵さんが「奇形文字のかたちをあらはした」落雁(らくがん)をつくっていたとも書かれています。また大正7年には小樽市のおすし屋さんで「古代寿司」も売り出されていたそうです。(石川直章氏「手宮洞窟からみたフゴッペ洞窟‐研究史における意義‐」『余市水産博物館 研究報告第4号』)
 昭和2(1927)年、フゴッペ洞窟のある丸山の線路側に細い線で描かれた刻画9点と人の顔のような岩が発見されて、一躍注目を浴びます。刻画を手宮洞窟に倣ってフゴッペの古代文字と呼ぶ人もいました。
 昭和29年、言語学者の金田一京助博士が宮中で天皇陛下を囲んで開かれた座談会の席上、手宮洞窟は明治時代のいたずら書きの偽物であると発表したことが全国的に大きな波紋を広げました。同年9月の新聞紙上には「波紋投じた金田一発言」の見出しが見え、金田一説が「一方的」で「軽率」であること、手宮もフゴッペも「文字ではなく彫刻」であるとの反論が唱えられ、昭和25年に発見されたフゴッペ洞窟が手宮洞窟ととても似ていて、発見と発掘調査の経過から信頼のおけるフゴッペ洞窟の研究成果が両洞窟の価値を高めることが期待されました。
 各分野の研究者が結集して多角的にフゴッペの遺物と岩面刻画を論じた発掘調査報告書には、言語学者の服部健氏による「フゴッペ彫刻は文字といえるか」が掲載され、「文字であるとは到底考えられない」、「(仮に)文字だけが目の前に示されても、それと結びつく言語を知らなければ解読は不可能であるということをわれわれは心に留めておいても良いであろう」と述べています。
 しかし「古代文字」のフレーズはその後も長く親しまれ、流行歌にも使われます。北原ミレイの石狩挽歌(♪変わらぬものは古代文字〜)や、鶴岡雅義と東京ロマンチカの小樽の人よ(♪偲べばなつかし 古代の文字よ〜)が知られています。
 フゴッペ洞窟が発見されて60年の節目を迎えた今年も、たくさんの方がフゴッペ洞窟を訪れて職員に尋ねます。「それでこの文字はなんて読むの?」
 
写真 「波紋投じた金田一発言」の新聞記事 昭和29年9月11日