その69       電気  

 余市町にはじめて電燈がともったのは大正4年8月のことです(『余市町郷土誌』)。同書によると、その年、小樽電燈株式会社によって送電線、変圧塔の設備が整い、営業所が出来て町内市街地の電燈およそ3千燈に灯りがともりました。
 その後第一次世界大戦が終わった後の好況下、町内の工場などで動力としての電力の需用が高まって、電燈の数も倍近くに達したことから、大川町畑122(現在の大川8丁目付近)に余市変電所が作られて、比羅夫と寒別の両発電所からの送電を受け、また大正9年には古平送電線が完成して送電が行われました。
 町内各村への配電の始まりは、大正7年に山田村、同10年登村、湯内村(現豊浜町)、山道村(現豊丘町)、同13年島泊村、出足平村、昭和3年畚部(ふごっぺ)村(現栄町)に電燈がともりました。湯内、島泊、出足平の各村への配電は古平町から余市町への経路の途中で行われました。
 『北のあかりを灯し続けて〜北海道電力五十年の歩み〜』によると、明治の末頃、送電技術が発達して長距離の高圧送電が可能になると、山あいに作られた水力発電所からの電力供給が始められました。火力発電は小規模で電圧が低く、燃料費がかさんで故障が多く、それに比べて水力発電は故障が少なく電圧も高い状態で安定したので、安価な発電方法として主力になりました。電圧の高低で左右される明かりの色は、火力発電は赤く水力発電は白いと利用者から言われたそうです。
 大正元年には、古平川水系に水力発電所を建設して古平町と積丹町美国に電力を供給する計画が持ち上がり、同9年には古美(こび)水力電気株式会社が創立されました。前述した古平送電線完成による配電は、この古美水力電気からのものと思われます。
 余市町に電化をもたらした小樽電燈株式会社(前身は明治27年発足の小樽電燈舎)は、大正7年に帝國電燈株式会社と合併、古美水力電気株式会社も大正10年に同社に譲渡されました。帝國電燈株式会社は同15年に東京電燈株式会社と合併されました。
 大正時代の道内の電力会社は札幌、小樽、函館、旭川、室蘭、釧路と北見、苫小牧の7つに分かれて配電していました。その中のひとつ、王子製紙株式会社は苫小牧地区を中心として江別、岩見沢地区への電力供給を行っていましたが、もともとは自社工場用電力の発電部門から一般家庭用供給へと事業を拡大したものでした。
 同社は大正15年に札幌地区の札幌水力電気、小樽地区の東京電燈を相次いで買収して北海水力電気株式会社となり、社長には王子製紙社長の藤原銀次郎さんが就任しました。こうして北海水力電気は、昭和のはじめには札幌を中心におよそ現在の石狩支庁、胆振支庁にまたがる広い範囲に電力供給を行っていました。同社はその後北海道配電と日本発送電とに分かれますが、戦後の昭和26年に北海道電力として統合されます。
 電燈がともった時期や経緯は町内でまちまちですが、各地区の郷土史に見られる電化にまつわるお話は興味深いものです。たとえば梅川第一地区では昭和19年に電燈がともりました。
 
 『梅川郷土史』によると、電気が来るまではランプを使っていましたが、太平洋戦争下で灯油の入手が困難になってカーバイト(炭化カルシウム)も利用しました。暗い居間の不自由さや火災への不安から地域の電化への機運が盛り上がり、昭和18年に工事が始まりました。電柱となる木材をどこから入手するかを住民同士で相談し、実際の伐採作業は住民総出で行って150本もの落葉松を刈りだし、電線は古い電線をつなぎ合わせて使いました。こうした苦労の結果、地域の各家庭は明るい居間でラジオを聞くことができて「一気に夢の国へ躍り出た心地」となりました。  

  図 大川8丁目に見える昭和50年代の
      北電保線区(図中の@)と変電所(同A)
 
 また登町の電化のはじまりは、昭和7、8年頃、水車などの自家発電でした。同町大登地区は昭和18年に陸軍の駐屯によって電化され、その際に一般家庭へも電気がひかれ、最初は鉄製の電線で電圧が低下しましたが、戦後は銅線になったそうです(『登郷土誌』)。