その66
ことしの夢  坂本町長が語ったリンゴの輸出

 「余市町は北海道、日本の中の余市ではなく、世界経済の中の余市になってきている(ハハハ、ちょっと大きいかな?)・・・近く日ソの貿易が始まろうとしている。ワシはこれを機会にソ連、中共、それにホンコン貿易に余市地方の物産をドシドシ送り込む。ボヤボヤしとったらなにもできゃあせんよ。こうなってくると余市リンゴをソ連に送る。・・・春以後はリンゴの帰り船にソ連のニシンを積んできてはどうかと思っている。・・・余市の人たちは加工が上手だし、手がそろっている。」これは昭和33年1月7日の新聞記事「ことしの夢A 町村長さん大いに語る」で、坂本角太郎町長(当時)が語った最初のくだりです。
 
写真 ウシヤコフ船長にリンゴを
 手渡す坂本町長(左)
(昭和33年1月25日の新聞記事から)
 町長は紙上で、古平町までの海岸の国道229号線の開通、余市橋工事、余市川河口港の継続工事などにも全力をあげる決意を語っています。また後半では「ほんとうの夢は」とことわりを入れながら「観光施設もやって行きたいね。行く行くは茂入にドライブウエーをつけ道幅のせまい今の茂入下の道道などもここの下にトンネルを通すことにより交通事故がなくなるだろう。」とも語っています。
 国道229号線の海岸道路は、昭和23年着工の工事が足掛け10年かかってこの年遂に開通し、また余市橋と河口港の工事も進みました。茂入山の観光開発も頂上へ続く観光道路と温泉ホテルの開業などで実現しました。
 坂本町長はいくつかの夢の中で、リンゴの輸出には特に積極的だったようで、「ことしの夢」が掲載された20日ほど後には小樽に入港したソ連の貨物船イゲルカ号に河野余市町西農業協同組合長、鳥海大江村長らと一緒に乗り込んで余市リンゴ(国光)4箱30kgをウシヤコフ船長に手渡してPRをするほどでした
(写真)
 余市町のリンゴ輸出のピークは明治時代にありました。明治30年代には青森など東北地方のリンゴの生産が急激に拡大し、道産リンゴは消費地に遠く、品質が揃わなかったことから主役の座を失いました。
 活路は海の向こうにありました。道産リンゴの肉質がしまっていて長期間の貯蔵に耐えられることが歓迎されて小樽港や函館港からロシアのウラジオストックや中国、朝鮮半島に道産リンゴが続々と輸出されました。
 「春は国光が大部分で四月に一番多く輸出されておりました。・・・このころ余市にはリンゴ問屋が十軒程あったようですが、輸出リンゴを取扱っていたのは平田商店、服部商店、安井商店の三店と思います。・・・貿易は非常に順調で、商人も農家も大いに潤った。・・・儲けた金は余市のために使おうと思っていたがロシア革命でルーブル(紙幣)は使えなくなり、夢は一瞬にして消え去った。」と当時を知る複数の古老の証言がのこっています(『余市農業発達史』)。大正6(1917)年のロシア革命により、夢は一度消え去りました。
 坂本町長はふたたびの夢実現に向けて、日ソの定期航路開設の陳情や農林省との協議を続け、試験的な移出も行いましたが、アメリカ産のスターキングやデリシャスと競合しコスト面からも割高だったためか、なかなか軌道には乗りませんでした。
 8年後の昭和41年1月4日の新聞報道では「対ソ輸出商談不調に終わる」の記事が見えます。前年のソ連との交渉は順調で、ソ連産ニシン四千トンの輸入と並行して千トンのリンゴを道産リンゴ優先で買い付けたいとの意向が届きました。しかも道産リンゴは余市町のものをとソ連から指名されました。これは余市町からのサンプル提供やパンフレットによる紹介など積極的なPRが功を奏したものでしたが、残念ながら輸出品種の国光が着色不足と凍害で先方が希望する収穫量を確保することが出来ず、この年の輸出は断念しました。しかし地元関係者は、実現寸前までこぎつけたことを成果として再び挑戦することを誓い、余市リンゴの市場拡大のための地道な努力を続けました。
 町長が語った夢はかたちを変えて今につながっています。