その61     余市空襲  

 第二次世界大戦の終わるころ、日本各地の沿岸はアメリカ海軍の攻撃を防ぐことが出来なくなってきました。終戦の年の昭和20(1945)年、7月14日から翌15日の二日間に北海道各地で78の市町村が空襲されました。
 『北海道空襲』によると被害は太平洋沿岸の市町村に多く、日本海側では留萌、石狩、後志の3支庁に及び、全道で千九百人以上の犠牲者が出ました。


写真 迷彩塗装されたかつての水産試験場
 青函連絡船も標的にされ10隻が沈没、429人の死者を数え、また室蘭では艦砲射撃を受けてさらに多い439人もの犠牲者が出ました。積丹半島では古平町が最多の21名、積丹町でも13名の犠牲者が出ました。
  アメリカ海軍第38任務部隊は北海道南部から登別市沖合に艦船を派遣し、13隻の航空母艦からグラマン機やカーチス機など三千を超す艦載機を出撃させて無差別の爆撃と機銃掃射を浴びせました。同書によると、第38任務部隊は沖縄戦に参加して受けた損傷を修理して補給も終わらせ、7月1日にフィリピンを出港しました。日本軍は沖縄に続いて西日本が攻撃されるものと思っていましたが、予想に反して艦隊は北上して北海道に向かいました。
 この北海道空襲の前の5月から7月にかけて、空の要塞と呼ばれたB29爆撃機が何度か北海道上空に侵入して偵察活動を行い、余市上空にも現れました。
 「余市の百人(3)」(『余市文芸第17号』)によると、北海道各地に当時236ヶ所あった監哨(かんしょう)所のひとつ、「余市防空監哨所」では24時間体制で50人の人員を配置して監視していました。そこでは8倍の双眼鏡を使っていましたが、町内の水産商の方が「八倍では1万m上空のB29は見えない。自分の持っている二十倍の双眼鏡を寄付する。」と言ってすぐに届けてくれました。
 昭和20年6月23日午前4時59分にB29をその双眼鏡で確認することができました。他の町の監哨所では友軍機であると報告したところがありましたが、余市ではその20倍の双眼鏡のおかげで正しい報告ができたそうです。
 敵機は7月15日に襲ってきました。水産試験場付近に爆弾が投下されて、機銃掃射も浴びせられました。当時の水産試験場は東洋一の研究施設と言われていたために、標的となったといわれています。幸いにも死傷者は出ませんでしたが、当時を振り返る証言が残っています。
 「あのときは二発爆弾が落ちたんだね。一発は郵便局(注)の裏の空き地に落ちて、すり鉢状に直径五mくらいの穴ができた。もう一発は当時、岡田お菓子屋さんというのがあって、そのそばに落ちたんだが不発だった。あとから掘り出して処理したんだろうね。(〜中略〜)朝から空襲警報が出てみんな高台に避難した。そこから飛行機が見えていたね。近くの山に暁部隊がいたんだが、鳴りをひそめたままだった。おそらく水産試験場を狙ったんではないかね。それが50mくらい外れて落ちて被害がなかったんですよ。」(『北海道空襲』)

(注)当時の沢町郵便局で、中央水産試験場の向かい側、道道余市港線と道道豊丘余市停車場線の交差点の角にありました。