その56   開放記念碑(その1) 黒川毛利農場と中山農場

 登街道を東へ(小樽方向へ)向かうと、八幡生活館の敷地に開放記念碑が立っています。高さ3mを超える大きなものなのでご覧になった方も多いと思います。
 碑文には、594万uにも及ぶ農地の農場主だった駒谷富士太郎が、小作人との交渉の結果、「開放売渡シヲ快諾」したこと、さらに「保安林用地十八町歩ヲ小作人側ニ無償譲渡」したことが刻まれています。昭和19(1944)年のことでした。
 北海道各地の大規模農場は、明治19(1886)年の北海道土地払下規則(一人10万坪(約33万u)までの土地を無償貸与、開墾成功後は千坪1円の代価で個人が取得可能)と、明治30年の北海道国有未開地処分法(開墾成功後は無償でその土地を取得)により、その数が増えました。とくに明治30年代以降、移民が増加して北海道開拓の機運が大いに盛り上がった頃から増加しました。
 黒川町の登街道沿いは、明治のはじめの旧会津藩士らの団体入植によって開墾が始まりました。その後の明治10年代末、旧会津団体の入植地の東側にほぼ隣接する土地に、粟屋貞一(あわやていいち)を開墾責任者として黒川毛利農場の団体が開墾の鍬を下ろしました。
 当時の余市川流域沿いの平坦地は、巨木が生い茂って昼間でも暗く、背丈を越える笹のせいでシリパ岬が見えないほどでした。
 粟屋の属した毛利家は仁木町大江地区の開拓の祖として有名です。同家による開墾事業は明治13年に始まり、同18年には余市町黒川地区での開墾事業に着手しました(『小樽・後志の歴史』)。
 黒川第7・八幡地区の『郷土誌』によると、粟屋により当初、畑作と牧畜の混合農業を取り入れた黒川地区700万uの土地は、町内の余市川の右岸ほぼ全域といってもよいほどで、同書によれば南は仁木町一番地(バス停「仁木北町」付近)から北は旧登川(北星余市高校南側)まで、東は登川の左岸(モンガク地区付近)から西は国道5号線付近までの広大なものでした。粟屋の指導と小作民の努力で農場内の湿地は水田へと開発され、農地が広がってゆきました。現在の黒川地区は余市町の米作の発祥の地といえます。

 
写真:開放記念碑
 その後、粟屋が去った毛利農場では農場売却問題を発端として300人の小作人たちが立ち上がる小作争議が起きました。最後は小作人らが直接農場主と交渉しておさまりましたが、その頃には新たな支配人も引き揚げてしまっていました。
 礼文島に漁場を経営していた中山喜六が毛利農場を譲り受け、農場は中山農場と改称されました。中山は小作人の権利を出来るだけ認めて温かく接し、私費を投じて水田用の水路工事を行い、養豚養鶏の副業を小作人に奨励し、皆が集える会館も建設したので、彼らはますます農業に励むこととなり、農場は全道の「模範農場」と呼ばれました。
 中山がニシン漁場を経営していた礼文島の同業の仲間に駒谷富士太郎の父、三蔵がいました。