町内で水道が使われはじめたのは、今から50年以上前の昭和29年のことです。最初は時間を区切っての給水で黒川地区からでしたが、同年後半には配水池の工事が終わって終日の給水になりました。全町が給水可能になったのは、その15年後の昭和44年のことでした。
 明治43年には富沢町で内径4寸(約13cm)の木や竹で出来た水道管が340mほど延びて周辺250戸に給水がされていたことがありましたが、水は井戸からの水を使っていました。
 その後、大正11年には余市川からの水を水道として利用しようという気運が盛り上がりました。同13年には黒川村(当時)と中島埋立地(余市橋付近か)の一帯を範囲とする「私設上水道敷設企業」が認可され、鋳鉄(ちゅうてつ)管(鋳物(いもの)の管)を使って80戸ほどに給水されましたが、ながくは続かなかったようです(『よいちの水道』)。
 水を町内に広く行きわたらせる配水管敷設の工事は昭和26年からはじまって、だんだんと普及しました。昭和29年2月の公報に水道使用料金の一覧表が見えます。
 その頃は用途ごとに、家事用、営業用、工業用、浴場用、船舶用、果樹用などと料金が9つに分かれ、家事用は計量栓と定額栓(1戸5人まで)のふたつがあり、さらに家事用の料金表の中でも浴槽がある場合(浴槽1個月100円)、牛馬がいる場合(1頭月50円)、自動車がある場合(普通車1台年500円、小型三輪車1台年200円)と細かな設定がありました。
 昭和20年代末から30年ころの公報では「明るい台所から文化生活を!お洗濯にも充分使える水道」、「HTNERUTO ZTA」(ひねると ジャー)などの標語がイラストともに掲載され、水道普及をはかる当時の様子がうかがえます。
 昭和31年末時点では全町では50%ほどの普及率で、各地区では沢町75%、入舟町69%、黒川町58%、大川町16%と町西部が高い普及率だったようです(『区会だより』昭和31年12月)。
 同年の『区会だより』には大川小学校5年生の女の子の作文「おかあさんと水道」が掲載されています。
 その子の家ではポンプ式の井戸水を一家総出で汲んでいて、お風呂も井戸水で沸かしていました。お湯が熱い時にその子が「お水」と叫ぶとお母さんは「ああ いそがしい」と言ってポンプで水を汲んでうめてくれていたのだそうです。作文の最後はつぎのような文章で終わっています。
 「おせんたくやそうじもポンプをおさなくてもよいのでお母さんのしごとは大へんらくになった。水道をつけたので、お母さんのかほも明るいです。」
 
 

    写真: 『区会だより』 昭和31年11月