-その44-             行商の巻     
 
 昭和30年代ころまで、余市駅は朝の暗いうちから荷を背負った行商の人々で混雑しました。戦前の余市小樽間には「特別行商列車」というのがあるほどでした。
 最盛期には2千人を超えたこともある行商の人たちは昭和23年に行商組合を結成し、同20年代後半には大川北部、黒川、黒川中央、駅前と4つの組織を持っていました。
 昭和26年の『月刊郷土誌よいち』に「座談会 行商よもやま話」が掲載されています。組合は石田孫右衛門さんらが発起人となって結成されましたが、その背景には終戦後の食糧事情が悪い時期に野菜などを町外に持ち出すことが難しかったこと、商品を勝手に販売することが許されなかったこと、汽車で運ぶにも「殺人的」に混雑する中を車窓から出入りしてやっと「パン代」を稼ぐことが出来た状況をなんとかしようと考えたからだったそうです。
 その記事によると26年当時の組合員は698名いて、毎日行商をする人が向かったのは北は滝川、南は室蘭や八雲までが多かったそうです。野菜を商う人たちは比較的近いところで商売をしましたが、鮮魚は遠いところまで行かなければ利益が出ないので、釧路や根室まで足を伸ばす人もいたそうです。道内で一番売れたのは、空知方面などへの路線が交わっていた岩見沢駅で、遠隔地へ向かうためには午前2時過ぎには仕事を始める人もいました。
 ほぼ年中の商品となったのはリンゴ、サクランボ、イチゴ、ブドウといった果物で、最も長期間にわたって売られたのはリンゴでした。ある年の余市産リンゴはその6割が行商の人たちによって町外へ出荷されたことがあったそうで、リンゴを25貫目(約94kg!)ほども一人で運んだ女性がいました。その合間にカレイやニシンなど季節の鮮魚が商品になりました。
 行商の仕事で苦しかったのはなんと言っても重いものを担ぐ肉体的な苦痛が一番でしたが、睡眠不足も体にこたえることでした。


写真:余市駅内の行商かご
   「ある日、新ワカメ20貫目を背負って朝一番の汽車で岩見沢へ行ったのです。その時運悪く噴火湾の方からも新ワカメが1貫あたり70円で入荷していました。私のは同じもので100円だったので誰も買ってくれませんでした。何とか1貫だけは売れましたが残りのワカメを持って、行ったことのない歌志内への汽車に乗りました。寒い時期のこと、体中ワカメの汁でべとべとになって寒さが身にしみました。
 不安なまま歌志内に着いたのですが、町中の魚屋という魚屋には40円位の新ワカメがたくさん出ているんです。寒さはますます厳しくなるし汽車の時間もなくなってくるしで、結局岩見沢にもどって原価よりも安くして残りのワカメを全部売って終列車で帰ってきました。寒さと飢えと疲れで帰りの車中がっかりしてしまい、物を食べる元気もなく縮こまって帰ってきました。」