その42                     羆(ひぐま)                

 12月になりました。積丹半島の山々に住む羆も冬眠している頃でしょうか。
 羆に関する記述は江戸時代の松浦武四郎の紀行文にも散見され、積丹半島に広く生息していたことがうかがえます。明治20年前後(1886〜1888)には半島での捕殺数が100頭を超えていました。(全道では約3,000頭)。時代は下って昭和50年代後半には半島全域で20〜35頭の生息が推計されています。

 今回は、羆にまつわるお話をふたつ。
 明治18年頃、手負いの人食い熊が古平街道(現在の国道229号線)に出たという話がニシン場の親方の中村さんに伝わりました。親方は数人の猟師を引き連れて馬にまたがって出かけました。現場は現在の梅川トンネル近くの沢で、皆で待ち構えていると50mも離れていない林から500キロはあろうかという巨熊が現れました。すかさず3人の猟師が続けざまに鉄砲を放ちましたがかすめただけで、熊はみるみる親方の眼前へ迫りました。それをかばった広谷さんという猟師のひとりが山刀(たしろ)で切りつけて格闘が始まりました。
 近くにいたほかの猟師らは広谷さんがいるので至近距離から鉄砲を撃つことも出来ませんでしたが、一瞬のすきをついて放った銃弾が熊に命中しました。熊は血を流しながら林の中に逃げ込み、広谷さんは沢町の病院に担ぎ込まれましたが、右目あたりをざっくりと抉(えぐ)り取られていて手当てのかいなく亡くなりました。馬にまたがっていた親方はすぐに市街地に降りて20名ほどの援軍を連れて現場に向かい、その日の夕方にはついにその巨熊を仕留めました。担がれた熊の前後には猟師さんたちの一団が連なり、勝利の雄たけびをあげながら戻ったそうです(『余市少史』「熊にノックアウトされた猟師」)。


写真:捕殺された熊
(『郷土史』豊丘町から)
 明治以降、豊丘町では白昼に現れた熊が人々の眼前で馬を襲ったり、人家に入って食糧を食い荒らすことがたびたびでした。昭和15(1940)年には豊丘町中の沢の奥に共同牧場が作られていましたが、そこで一晩に2頭の馬が犠牲になりました。地域の人たちが捜索隊を編成してあたりを探すと、藪の中の木陰近くの地面に穴を掘って殺した馬を埋めているのが見つかりました。
 また、終戦直後のこと、菅原さんという方が親子熊の足跡を追って余市鉱山のあたりを探していると、大人4人でやっと抱えられるほどのシナの巨木の根元で足跡が消えてしまいました。不思議に思ってその巨木の傍らで休んでいると、その中で何かが動く気配がします。木の枝で叩くとかすかなうねり声が聞こえ、さっきまで追っていた熊のようです。シナの巨木は中が腐ってほら穴のようになっていて、どうやら小熊が誤って木の中に落ちてしまい、小熊を助けようとした親熊も出られなくなってしまったようでした。逃げられなかった親子熊は易々と捕まってしまいました(『郷土史』豊丘町「娯楽と熊と」)。
 (刊行物から引用したエピソードの中では「熊」と表記しています。
  山刀=ナタのような刃物で角ばっていない手刀)