その37 海水浴場
 もうすぐ海水浴シーズンです。今から92年前の大正4(1915)年の北海タイムスに、「雄大なる日本海の海波(かいは)!!!」の大きな見出しで余市の海水浴場の紹介記事があります。
 余市町の海水浴場は明治39(1906)年、町内の旅館のご主人が大浜中に開いたのが始まりとされています。しかしその海水浴場は1年かぎりのもので、記事が掲載された大正4年、いくつかの旅館の主人らが発起人となって新たに海水浴場を開き、脱衣場、売店、「男女各別の湯殿塩湯」の設備が整えられました。
 この時の海水浴場の場所はモイレの海岸のようです。
 5つの売店にはビール、サイダー、氷や「軽便料理」(軽食?)が原価同様で提供され、旅館も2割引で泊まることが出来たそうです。
写真・夏の日の砂浜
 この海水浴場の記事は、同社が主催し、参加者を募集した海辺の催しを伝えるもので、半額の汽車賃が設定されて、倶知安や近郊から数百名が集まりました。
 催しの目玉は「磯舟競漕(きょうそう)」で、沢町の沖合い400mほどのところから東方向に並んだ5艘によるレースが行われました。記事には3回のレースの優勝者の名が見えます。また「宝捜し」では、砂浜に埋められた「宝札」を探し、そこに書かれたメッセージを海水浴場事務所に申し出ると、反物(織物)などの副賞品がもらえるというものでした。
 時は移り昭和20年代後半以降、海水浴場が大川小学校裏手にあったことがあり、一帯の海岸線は「天与の海水浴場」と宣伝され、さまざまな施設を整えて昭和26(1951)年7月8日に海開きが行われました。
 その年の『月刊郷土誌よいち』8月号から、その海水浴場にどんな設備があるか見てみましょう。
 今では遊泳禁止ですが、当時は「閑静かつ遠浅で危険の少ない海面」とされ、万一の事故防止のための「標旗」が海上に並べられて監視員が配置され、砂浜にはビーチパラソル、無料休憩所、相撲土俵、「遊動圓木」(遊具?)、ブランコ、飛込台があり、泳げない子どものためにバタ足練習用のブイが浮かべられていました。また学校グラウンドは昼間は球技場、夜間はスクエアダンス会場になり、用意された放送設備は海岸に音楽を届けていました。
 その頃の砂浜は今よりも格段に広く、余市川河口から登川河口まで途切れることなく砂浜が続いていました。