その36 余市鉱山
 昭和40年代、後志は北海道の縮図と言われました。これは、農業、漁業、商業、製造業、鉱業など北海道にあるすべての産業があることのたとえでした。かつての余市町もそれに近かったと言われ、今は採掘していませんが町内には3つの金属鉱山がありました。
 そのなかのひとつが山道村字奥山道(豊丘町)にあった「余市鉱山」で、銅、亜鉛、鉛などの含まれる鉱石を採掘していました(『郷土史』豊丘町郷土史編さん委員会編)。
 住友金属鉱山様によると余市鉱山は、大正7(1918)年に山本喜代松さんと藤原七四郎さんの二人が鉱石の露頭を発見したことが始まりでした。大正11年には住友合資会社へ権利などが譲渡され、一時休山した後、昭和6年にふたたび採鉱がはじまりました。
 豊浜の鉱山(湯内坑)は明治18年に発見され、昭和9年に住友余市鉱山の所有になりました。豊丘町にできた選鉱場と豊浜の湯内坑は、山越えの7.4キロの索道(ロープウェーのような空中ケーブル)で結ばれました。ケーブルには数メートルおきに「鍋」(大人が5、6人も入れそうな鉄製のバケット)がぶら下がって数百以上にもなり、それに入れられて豊浜からの鉱石が運ばれました。
 『郷土史』からその頃にあったお話を紹介します。
「余市鉱山の一部 昭和13年」(『郷土史』より)
 昭和12年2月の厳寒の中、経理課長の小室武夫さんと部下の森川正さんは、豊浜に働く従業員の給料7千数百円をリュックに背負い、スキーをはいて山越えルートに向けて豊丘側から出発しました。午後3時を過ぎた頃から先が見えない猛吹雪になり、道に迷った二人は力尽きて大きなトド松の根元に避難しました。
 予定の時間になっても豊浜にたどりつかない二人の安否を案じた仲間たちは捜索を始めましたが、ものすごい吹雪に難航しました。捜索隊の一人だった猪口清さんが二人を発見しましたが、そこから戻ることが出来ず、三人は死を覚悟しました。
 幸いだったのは、あまりの強風のため三人のまわりを雪の壁が取り囲んで風除けの格好になったことでした。少しだけ事態は好転しましたが、それでも吹雪はやまず、夜の寒さに負けそうになりました。
 三人が体を寄せ合ってもなかなか温まることは出来ず、悩んだ末にリュック一杯に詰め込まれていた十円札を一枚ずつ燃やして暖をとることにしました。そうして「リュックの底がみえはじめ」た明け方になる頃には吹雪が止んで下山することが出来ました。
 遭難から一夜が過ぎて絶望視していた会社の仲間は、下山してきた三人を見て「みんな手を取りあって」喜んだそうです。
 最盛期には250戸ほどになった集落は、余市町市街と舗装道路で結ばれてバスが運行し、学校(桜ヶ丘小学校)には子どもらの声がひびいていましたが、昭和38年の閉山後、集落は少しづつ小さくなっていきました。