その33 ニシンの神様 2
 マルナカの親分がきて「もう見込みないべか」と沈痛な声を出した。
 「もうひと時化(しけ)みてみたらどうですか。まだ中部(留萌増毛地方)も獲れていないんだから」(平野義見著『思い出』「ニシン予報日記」のひとこま)
 前号にひきつづきニシンの神様と呼ばれた平野義見さんのお話です。右のやりとりは、架空の物語との断りはありますが、多分にご自分の経験をもとにされたお話のようです。
 ニシンが来るか来ないかを科学的に予測するニシン予報(「春ニシン漁況予知調査」)は、平野さんを中心に5名ほどのチームで仕事を分担していました。


写真:平野 義見氏 
(ご家族所蔵写真)
 『北水試百周年記念誌』によれば、その方法は、毎年のニシンの年令別漁獲量をもとに各年令の群れの生存率を前年の漁獲とあわせて計算し、海洋観測と漁期前の流し網の漁獲を考慮して算出するものでした。具体的には、総漁獲量、積丹半島南から網走までその的中率については、どれ位の大きさのものが多いかなどでした。的中率については、「好評というわけでもなかったようで〜中略〜まあまあと」と後に回想されています。
 函館の水産試験場長だった辻敏さんの豆本『試験場物語』には、ニシン予報のことや、その公表時期をどうするかが重要な問題だったことが詳しく書かれています。予報は漁民の着業準備や銀行による融資などに影響し、地域にとっての一大事でした。
 漁期に入ると、試験場3階の無線室に各地の試験船から漁模様を報せる無線連絡が入りました。各地の漁況をつかむため、平野さんは数ヵ月泊り込みで仕事に明け暮れました。
 平野さんと同窓で、かつての部下が町内にいらっしゃいます。戦後すぐに試験場に就職され、5年ほど調査船に乗り込んで石狩湾のニシンの標本採集をされた方で、平野さんの印象を「役人らしくない、広い視野を持った研究肌」と言い表されています。
 その方をはじめ平野さんの仲間達は、予報が出る前に少しでも早くその内容を知ろうと平野さん詣でを企む各地の漁協の組合長、建網経営者、報道関係者らがおしかけるのを一致団結してお断りしたこともあったそうです。
 平野さんがもっともつらかったのは、「楽観的予想を発表してそれがはずれた場合」で、そうなると「地球の裏側へでも逃げて行きたい気がした」ほどだったそうです。
 平野さんのご子息が9年ほど前に書かれた次の一文からは、漁業関係者からの信頼や期待を背負った当時の精神的なつらさが伝わってきます。
 「心に引っかかることが一つあった。それは正月になると決まって父の機嫌が悪くなり、怒りっぽくなることであった。〜(父は)夜も眠れなくなり、いつも睡眠薬の助けを借りていた。」