その30 天内山
 町内入舟町にあった天内山(あまうちやま。東中の東側)は、標高20mほどの頂上が平坦な低い山でした。明治34(1901)年には『北海道史』の編纂(へんさん)主任であった河野常吉によりその見取図が書かれ、大正7(1918)年には同氏により「余市の城址(じょうし)」として『北海道史』附図に報告されました。河野はこの「城址」をアイヌ民族が使用していたチャシ(アイヌ語で砦、柵、柵囲いといった意味)と考えました。道内には500ヶ所以上の存在が確認され、「戦いに備えた場」、「様々な神の居る場」、「儀礼を行なう聖なる場」、「見張りの場」などの伝承が残っていますが、考古学的には18世紀までにはその役割を終えたものと考えられています。

写真:天内山の空中写真
写真中央が天内山、左は東中
(1960年版の『町勢要覧』より)
 翌8年には寺田貞次により当時の天内山の状況が報告され、クルミの大木が密生していた丘陵はその頃までには開墾されてリンゴ畑や畑地となり、地盤の白色火山灰は山の東端20m以上が採取されていたそうです。また土器片や石器、鉄器の破片が散乱し、貝塚も見られていたとあります。
 もっとも地元では昔から遺跡として認知されていて、「アイヌ民族の古いお墓があるとの言い伝えにより山麓にお供え物をしていた」、「アイヌ民族による祭場の伝承が残っていた」、「山の斜面から現われた土器を拾った」という経験談も伝わっています。
 昭和45(1970)年、宅地造成と余市川護岸の埋立土確保を目的として、天内山の土砂採取が開始されました。当時を知る方によると「掘削された地中から立派な刀があらわれて驚いた」そうで、町教委は札幌医科大学講師の峰山巌を発掘担当者として天内山遺跡調査機構を立ち上げ、同年6月13日から21日までの9日間、集中した発掘を行いました。
 調査区域は約110uと頭頂部の総面積から見ればほんの一部でしたが、10基のお墓、多くの柱穴、貝塚などが見つかりました。貝塚からは貝、魚骨、動物骨が出土し、当時の人々の食生活を窺い知ることが出来る資料となりました。こうして、天内山はチャシであったことが再確認され、更に古い時代である続縄文時代から擦文時代まで人々の営みが続いていた場所であったことが判明し、昭和51(1976)年5月21日、北海道指定の有形文化財「天内山遺跡出土の遺物」に指定されて保存されています。
 余市は15世紀のコシャマインの戦いや、17世紀のシャクシャインの戦いといった日本史上に残る大事件に登場しますが、その舞台の中心は天内山を含む余市川河口一帯であったことはほぼ確実で、歴史上重要な河口でした。