-その28- 豊丘の二宮金次郎像の巻
 豊丘小学校の校門正面右手に、薪を背にして本を読みながら歩く二宮金次郎の石像が立っています。
 二宮尊徳(通称、金次郎、正しくは金治郎)は、天明7(1787)年に相模国(神奈川県小田原市)の農家に生まれました。農村の復興に尽くし、後に幕臣になった思想家で、多くの逸話が残されています。両親の死後預けられた叔父の家で、寝る間も惜しんで読書をしていると「油代がもったいない」とたしなめられ、自ら荒地に菜種を育てて換金して得た油を灯して勉強を続けたそうです。また、成人してからは下野国桜町(栃木県)で大凶作を予想し、農民にヒエを植えさせて備えたため、一人の餓死者も出さなかったお話などが残されています(夏前のナスの味が、秋ナスの味だったことで凶作を予知したとも言われています)。
 尊徳の思想は報徳仕法と呼ばれ、節約と貯蓄、積善によって農村復興をはかるもので、その弟子で札幌開拓の始祖と呼ばれる大宮亀太郎は、報徳の教えをもって札幌村の基礎を築きました。
二宮金次郎の石像
  (豊丘町『町史』より)
 薪を背負いながら読書をする金次郎は、明治14(1881)年の『報徳記』の文中に初めてあらわれ、同24年の幸田露伴著『二宮尊徳翁』に挿絵が初登場しました。
 豊丘小の金次郎像の建立は、地域の人々や関係者らの愛郷心の賜物でした。豊丘町の『郷土史』によると、昭和16年、開校40周年を迎えた豊丘小学校(当時は山道国民学校)に、宮本カメ氏から児童の情操教育と心の支えになるようにと、金次郎の銅像が寄付されました。土台は地元の人々の勤労奉仕により築かれ、石工は沢町から中村義雄氏が呼ばれました。また周囲の芝生や碑文も町内のお医者さんや山田町のリンゴ園経営者からの厚意によって整備されました。
 同年9月7日の日曜日と翌8日の2日間にわたって行われた開校記念式の初日に、除幕式がありました。当日のものと思われる記念写真には、銅像を中心に子ども達と関係者が140名ほど並び、誇らしげな顔をしています。
 昭和21年1月26日、宮本カメ氏の長女、北島テルノ氏によって二宮金次郎の石像が寄贈されました。初代の金次郎の銅像は、戦中の金属供出によって失われていたので、母の遺志を継いだ北島氏が上川管内の士別で手に入れて運ばせたものでした。この石像が今も残っているものです。
 節約と積善を美徳とした金次郎像は二代にわたって、豊丘の子ども達を見守ってきました。来春、豊丘小は地域の人々に惜しまれながら105年間の歴史に幕を閉じます。