−その26− 日本のSS第1号
 余市町のリンゴ栽培の歴史は明治12(1879)年に始まります。その後、順調に収穫量は増大しますが、同時にそれは病虫害との戦いの歴史でもありました。『郷土研究bRりんごさむらい』によると、明治30年代には病気や害虫が次第に見られるようになり、日露戦争の頃(明治37〜38年)には、熟した果実を食い荒らすりんご芯食い虫対策のため、紙製の袋を針金でしばる袋かけが始まったとあります。この袋かけの手間と人手は大変なもので、豊丘町『郷土史』によると袋かけの時期には「近村と云わず道内、そして遠く本州からも袋かけの人々が入り、どこの家でも何十人という」人々が泊りがけで働きに来て作業にあたったそうです。「袋をかけずにリンゴをとれたら」という農家の人々の願いは、第2次大戦後、豊丘町の宮本晋司氏によってかなえられます。
 豊丘町『郷土史』と『余市農業発達史』によると昭和29(1954)年、農林省の推薦を受けて日米親善第3回派米農業生として全道から選ばれた2名のひとりが、果樹部門の宮本氏でした。カリフォルニア州に渡った氏が、日系人J・菊地氏の農場で目の当たりにしたのは、袋かけをしない栽培を可能にする薬剤散布機、スピードスプレーヤー(SS)でした。渡米前にすでに動力噴霧機を使った薬剤散布機はありましたが、機械化を進めていた菊地氏の農園と、広大な農園に並ぶ木々の間を駆け回るSSは画期的なものでした。
 そこでの5ヵ月間の実習後、同じく日系のS・山本氏の農場での養鶏の実習を終えて、帰国を待つだけとなった氏は、何としてもSSを購入して日本で使いたいという望みを菊地氏に打ち明けました。



新しい時代を告げたスピードスプレーヤー(SS)
(『郷土史』より)
 その熱意に打たれた菊地氏は山本氏と共に、カリフォルニア大学の農業改良普及局の事務長、J・岡本氏の協力も得て、当時の金額にして1万ドル(360万円)と高額だったSSを宮本氏のものにするために、銀行からの借入金を保証し、現地の日本人会の斡旋でSSを購入しました。
 菊地氏からのこの朗報を宮本氏が聞いたのは、帰国するためにシアトル港に停泊していた出航前の船上でのことでした。
 SSが船便で横浜に到着したのは翌30年のことで、輸入に関する法律や証明書類、国内の運搬に関する様々な難問にぶつかりながらも何とか余市に到着させることが出来ました。
 宮本農園で行なわれた実演会に集まった国内農機具メーカーの技術者や近隣の農家の人々は数百人にものぼり、彼らは霧状の薬剤を散布して進むSSに新しい時代の幕開けを見ました。