その148  ニシン粒買いと身欠の二本採り

 明治、大正と好調だった余市のニシン漁は、昭和に入って凶漁の年が見られだします。昭和101935)年には漁獲が無く、翌11年も同様な不漁でした。凶漁が地域経済に与える打撃は大きく、水産加工業、鉄道や馬車の運輸業、製造業などさまざまな業種にその影響が広く及び、それまでの「とる漁業」から脱却して、原料魚をよそから買い入れて加工する方針へと転換しなければならなくなりました。

同年5月12日午後8時から、沢町の劇場エビス座を会場にして、余市鰊加工組合が主催した町民参加の決起大会が催されました。大会では沿海州など沖合漁業への転換、冷蔵庫の建設、余市漁港の早期完成、ニシン加工への転換が叫ばれました(『余市漁業発達史』)。

先行きが見えないまま同11年の年は暮れて、翌12年1月25日、沢町の料亭藪珍に地元加工業者60名が集まりました。原料魚を買い入れて加工する体制を確立させようと、ニシン3万石の買入れと先進地岩内町の視察を決めました。

生ニシンを買い入れて運搬する船を「粒買い船」と言い、余市の加工業者がチャーターしたのは多くが青森県八戸の船でした。「4、5日間でチャーター料7、8千円から1万円位で、…中略…戦前までは、利尻、天売、礼文、焼尻から、西樺太へ行ったが、終戦後は西樺太へは行けなくなったので、北見まで行った。」とあります(山本繁太郎談、『余市水産加工業協同組合史』)。粒買いは形態を変えて戦後も続きました。

昭和10年中頃の新聞報道を見ると、「加工余市」への転換に成功し、岩内に次ぐニシンの移入地になったという記事が見えます。身欠の加工方法にも改良が加えられました。同14年の小樽新聞には、「身欠の集約加工 二つ採りを奨励」とあります。「普通身欠鰊は魚体一尾から一本の身欠鰊を採るのみで残りの半身は胴鰊として肥料又は飼料とするのみで貴重な魚体利用上遺憾とされてをったが二つ採身欠鰊は一尾の魚体から二本を採るもので…後略…」と見え、こうすると魚肉の大部分が身欠となって、一本採りよりも価格上有利となるとあります。記事には「余市水検派出所 松本石蔵」の名前があります。現在、私たちが普通に食べている身欠ニシンが、この記事でいう二本採りされたものですが、当時、水産加工品の検査業務を担っていた松本石蔵さんが、地元業者向けに身欠の二つ採りを奨励したものが始まりだったのでしょうか。記事には続けて、二つ採りは大正5(1916)年頃には既に寿都町など南後志で行われていたこと、昭和11年から余市で「骨付生身鰊」として始まって、後に改良されたともあります。

留萌市での聞き取り調査を筆者が行った際、二本採りになったのはいつからなのかと、かつて仲買人をされていた方にお聞きしたところ、「一匹から二本採れって余市に言われて変えたんだ」と言われたことを思い出しました。

28年の『水産月報』第49号では、北海道水産物検査所の検査員の対談中に、一本採りと二本採りが混在していることが指摘されています。現在のように規格が揃うのは後になってからのようです。

ニシン漬けがそろそろ食べ頃です。

 

写真 身欠製造(奥寺漁場)