その147  ブラジル移民

  余市町の歴史年表の大正8(1918)年のページに、「余市からも新天地を求めてブラジルへ移民する者が出る」と記されています。豊丘町地区の『郷土史』にも、同9年に渡航した1家族3名のお名前が見えます。インフレと農産物の売り上げ不調が国内各地の農村へ暗い影を落としていた時期のことでした。
 ブラジルでは、明治20年代、奴隷が解放されたために労働力が不足し、その穴を埋めるためにブラジルからヨーロッパ各国や日本、中国への移民誘致がはじまりました。しかし、日本国政府としては、悪質な移民取扱業者がいたこと、ブラジルでの過酷な労働環境から移民を保護するために、国として移民の送出しは制限している状況でした。抑制的な国の政策とは裏腹に、ブラジルからの移民誘致の声は次第に大きくなり、国内の移民希望者も増えてきて、明治41(1908)年6月、はじめての移民団およそ1,000人が笠戸丸に乗って神戸港を出発、シンガポール、喜望峰経由でブラジルに到着しました。大正3(1914)年に一時、中断したものの、同6年には第一次大戦によってヨーロッパからの移民が途絶えたため日本からの移民が再開されました。
 豊丘地区からのブラジルへの渡航はそうした状況の中でのことでした。その後、かの地へ渡った人々から「生活の安定した耕地の広い新天地で農業をいとなむ方が、将来のためになる」、「日本より暮しが楽だ」といった話が伝わって、多くの人が昭和2(1927)年から同4年にかけて、豊丘地区から南米に向かったそうです(『郷土史』)。同書によるとまず一人が出発、続いて夫婦単位や親子、地区にあった神社の宮司さん一家などがまとまって渡航してゆきました。
 出発の際には保証人が必要でしたが、笠島貞治町長(当時)が数人の保証人を引き受けるなどして送り出しました。豊丘からの移民は主にブラジル南東部のサンパウロ州に向かいました。北海道にいた頃よりも何倍も広大な耕地でコーヒー、陸稲、蔬菜、雑穀を栽培しましたが、農業を続けた人は少なかったようで、州都サンパウロへ出て商人や工場経営者、現地の日系企業の社員となった者など、その後は様々でした。
 登町からも昭和8年に移民団に参加された人がいました。『登郷土誌』によると、その方の知る移民団はアマゾン川流域に入植したものの、多くがそこを離れ、中にはサンパウロで農産物の仲買人となった人もいるそうです。
 昭和44年10月、ブラジル渡航から35年ぶりに蛯名源蔵さん(当時69歳)が豊丘へ里帰りされた際のお話が『郷土史』に見えます。同9年に奥さんと子ども、一家4人でサンパウロ州に移民、日本人が経営するコーヒー園で働き始めました。うっそうとしたジャングル、マラリア病など慣れない土地で苦労の絶えない生活を送った後、サンパウロ州の南隣のパラナ州に移り、菜園の経営者となって成功されました。息子さんも同じ町でクリーニング店を開いて繁盛させたそうです。
 温かい歓迎を受けた蛯名さんはひと月ほど滞在して旧交を温め、同年11月にブラジルへ帰ってゆきました。

 
▲写真:車輛工場を営む成功移住者(『郷土史』)