その142  ワインぶどう

 北海道開拓使が各種の果樹を主にアメリカから移入したことがきっかけで、明治時代以降、本格的に果樹栽培が道内に広まりました。その開拓使が重視した果物はりんごとぶどうで、ぶどうは生食用ではなくワインの原料として「大規模に試作」され、「他の果樹の倍する力」が注がれました(『北海道果樹百年史』)。
 大正時代までには、果樹栽培の生産を軌道に乗せた道内産地が現れ、優良品種も選定されました。大正8(1919)年の余市、仁木地方のぶどうの優良品種は、シヤスラードフォンテンブロー、シヤスラーローズ、デラウェア、カメルスアーリー(キャンベルス)、ブライトンとされました(前掲書)。 戦後は復興にともなって新興産地が現れはじめ、りんごやぶどうの増産がはかられましたが、ぶどうは主に生食用の品種が栽培されていました。
 道内ワインの先進地十勝管内池田町は、昭和36(1961)年、丸谷町長(当時)を中心にして、町内の農業青年26人の協力のもと「池田町ブドウ愛好会」が設立されたことがきっかけで現在に至ります(『池田町史』)。それに続く富良野市は、同47年に山ぶどうと生食用のキャンベルス、デラウェアを原料にして最初の醸造試験が行われました(「かみかわ「食べものがたり」」上川総合振興局HPより)。
 同48年9月、ワインづくりを新たな道内産業にしようとした北海道は、ワインぶどうの栽培方法の確立と北海道の風土に合った品種を探すために、道中央農試の果樹課長(当時)の峯岸恒弥さんをヨーロッパへ派遣します。渡仏後、西ドイツへ渡った同氏は国立ブドウ果樹栽培教育試験場を訪ねました。歓迎してくれた栽培部長は時期外れの枝の剪定をするといい、峯岸さんと畑へ向かいました。何本かの枝を剪定した後、「枝をあげるとは言わない。だけど、拾ってもいいよ」と言ってその場を去りました。胸が熱くなった峯岸さんは、枝木を枯らすまいと、切り裂いて濡らした下着で枝木をくるんでトランクに詰めました。日本国内にもたらされたブドウは挿し木で苗木が増やされて、栽培に適した場所が、道中央農試によって長沼町や富良野市、仁木町で育てられました(「北海道ひと紀行4」北海道新聞2010年12月1日)。その時に植えられた苗木は、ドイツ系品種10品種、オーストリア系9品種ほか50ほどの品種で、この中には後に脚光を浴びることとなる品種、ケルナーも含まれていましたが、当時は国外持ち出しが許されていない品種でした。持ち帰られた苗木は増やされて、同53、54年には試験醸造が行われ、同56年には北海道の優良品種が決まりました。早い時期から植えられていたセイベルの他、ミュラートゥルガウ、ツバイゲルト・レーベでした。
 昭和50年代後半は、りんごやぶどうの価格が下落傾向となり、余市町農協(当時)や生産者たちは新たな道を探すべく模索を続け、ぶどうのハウス栽培やりんごの果汁製造に活路を見出そうとしていました。同じころ、仁木町と余市町の農業試験地の責任者だった小賀野四郎さんは100を超える品種を栽培し、両町の農家の人達を20年以上にわたって指導しました。
 やがて試験栽培地であった仁木町にワイン醸造会社が訪れるようになり、同58年にはサッポロワインから余市町の農家へ600本の苗木が送られてきました。この契約栽培を始まりとして、その後も続々と北海道や本州のワイン醸造会社が町内の生産者との契約栽培を結ぶようになりました。町内で栽培されたのは道が選定した優良品種でしたが、小賀野さんはじめ、地元の関係者がほれこんだケルナーもワインとして売り出されて、余市ワインの顔になりました。
 ワインぶどうの栽培に試行錯誤を繰り返した昭和50年末から40年ほどがたちました。数年前に来町されたある研究者の方の言葉です。「余市の果樹園は手入れが行き届いていて、とてもきれいです。明治以来の歴史なんですね。」

 
▲写真:ぶどう棚からシリパを望む