その141  山岸礼三さんと大川遺跡

 茂入山の明治神社境内に山岸礼三顕彰碑と書かれた石碑があります。背面の銅版碑文によると、明治9(1876)年に新潟県の山岸健蔵さんの三男として生まれた山岸礼三さんは、「第一高等学校医学部」(旧制一高)を卒業、旧日本陸軍の病院だった若松衛戌(えいじゅ)病院(福島県会津若松市)、旭川衛戌病院、札幌衛戌病院の院長として働き、大正10(1921)年に退官後、余市町大川町に山岸病院を開業しました。
 氏は深い教養の持ち主で、書道や漢詩をよくし、余市町の在郷軍人分会長(現役を離れた軍人らの組織)もつとめました。医師として活躍された様子や余市出身のアイヌの歌人、違星北斗との交流などについては、『軍医中佐 山岸礼三』(余市豆本別刊)に詳しく描かれています。
 山岸先生は余市郷土研究会初代会長としての顔もお持ちでした。同会は先生を会長として昭和10(1935)年11月24日に結成され、大川町一帯の発掘、町内の野生植物の研究、余市を中心としたユーカラ(アイヌ民族の口承文芸)の調査を活動の3つの柱として掲げていました。
 大川遺跡の存在は余市町内にあった貝塚のひとつとして、昭和10年ころには広く知られていました。山岸病院は大川橋を通る旧国道の陸側、大川1丁目から3丁目までの大川遺跡のほぼ中央にありました。山岸先生が縄文土器や考古学への興味が湧くことになったきっかけはひとつの土器でした。先生が著された『北海道余市貝塚に於ける土石器の考察』に、そのエピソードが見えます。前述の違星北斗さんは病院の近所に住んでいて、時折、先生を訪ねてくることがあって好印象の人物であったこと、病気を患った違星青年を治療し、そのお礼にスイカの大きさほどの土器を全快祝いだと言って先生に差し上げたことが書かれています。その土器は、先生が余市に転居してくる前年の大正9年、違星さんが川に投網をした時に網にかかったもので、先生はこの土器をもらえたことがとても嬉しく、お祝いの宴会を開くほどだったそうです。
 昭和4年4月と翌5年5月の二度にわたって、病院の土地を拡張して塀をめぐらすことになりました。その際に地中から土器を発見した時のことが同書に見えます。意訳すると「板塀を廻らせようと杭穴を掘りはじめた時、そこから3個の小さな土器を掘り出した。翌年、別に譲られた土地は前の持ち主が野菜畑としていたが、そこも掘りはじめてすぐに、地表から45cm程と浅いところに土器の一部が見えた。人夫たちがそれは普通の陶器だと言い張るのをきかずに、丁寧に掘り出させたところ、大型の土器を傷一つつけることなく発掘することに成功した。すぐにその土器をきれいに洗い「神通」という名前をつけた」。
 昭和8年4月には大川町で大きな火事があって、復興のための区画計画が持ち上がりました。山岸病院は火災には遭いませんでしたが、一棟の診療所を取り壊すことになりました。その時にも「珍貴なる土器群数十点」やたくさんの石器が発見されました。先生のお持ちだった土器や石器はその後、北海道の考古学界で注目されるものになりました。

 
▲写真:土器を掘り当てた山岸先生(左端上) 『北海道余市貝塚に於ける土石器の考察』