その139  ニシン合同株式会社

 今年もニシンがとれています。石狩、後志管内では1月下旬からとれはじめ、同月末までの漁獲高は両管内で450トン、2月も漁が続きました。
 かつてのニシン漁は定置網漁による漁獲がとても多く、豊漁が続いた明治から大正時代は定置網の権利をもつ親方が地域の経済を左右するほどでした。しかし大正末にはニシン漁獲高の豊凶の差が激しくなり、また道南方面からニシンがまったく取れない地域もあらわれはじめて、主に定置網の親方やその関係者らがそうした現状を打開するために会社組織を立ち上げようとする、「ニシン合同」に向けて動き出しました。その中身は、北海道水産会、北海道庁、北海道拓殖銀行が中心となって、後志、石狩、留萌、宗谷の定置網漁業者の代表を集めて協議し、賛同者は資金を出し、または彼らが持つ定置網権利を会社組織に現物で出資してニシン漁を続けていこうというものでした。定置網の現物出資は定置網の値打ちを決めることと同じで、漁獲が多い定置網は収益のよい定置網として評価されることを意味しました。
 設立総会は昭和6(1931)年1月10日午前10時から、札幌市内の北海道水産会館で予定され、遠くは北見枝幸や利尻島の漁業者も参加する予定でしたが、猛吹雪となって積丹半島各地や利尻島などの代表者の到着が遅れ同月12日に延期となりました。会議の結果、この年は「鰊合同組合」として650ヶ所の定置網が操業することとなり、広い地域でまとまった漁獲があって関係者は一息つくことが出来ました。 
 6月の新聞報道を見ると合同会社設立の機運は薄まっているように見えました。例えば拓銀小樽支店長の宮口さんは「合同会社の経営者を誰にするかも問題だ~中略~的確な名案は誰にもあるまい」といい、道銀頭取の山口さんは、合同会社設立準備の内容が北海道庁から国の大臣にも伝わっていないことを指して、道庁の「絶対秘密主義」が問題だといい、小樽魚肥会社専務の伊藤さんは、「現在のままで推移して行けば、いわゆる昔ながらの鰊場の親方は自滅するかもしれません」と言っています。
 同年10月26日には関係者が集まった協議会が再び催され、審議の結果、定置網の評価額は町村別に100石(生ニシン75,000㎏)当たりの収益比率をもとにした金額から算出されることが決定しました。新聞報道で発表された100石平均評価額を見ると、後志管内平均では2,770円、石狩管内は2,689円、留萌管内は2,862円、宗谷管内は2,183円と留萌管内が高額になっています。町村別に見ると評価額の1番は本町の3,679円で、最も高い評価を得ていました。
 同年12月18日には合同漁業株式会社がついに設立され、同社に参加した定置網は後志から宗谷管内までの全定置網数の52%にあたる1,245か所となりました。しかし、それらは現物出資した定置網ばかりで、実際に操業する資金がないままの船出となり、拓銀からの低利資金350万円(当時)のうち操業にあてられたのは150万円で、残りの200万円は債務(借金)の返済にあてられました。
 その後、昭和12年には日本水産株式会社の傘下に入ることとなりましたが、ニシンの漁獲は減少、ニシンを使った魚肥の需要も低下していきました。
▲写真 : 合同のシルシがあるモッコ(福原漁場)