その126  青年団  

 青年団は概ね10代後半から20代までの若者による市町村単位の組織で、明治時代にあった自由民権運動の影響の下、広島の山本滝之助さんが同地で青年会を結成して以降、青年団が多く結成されていきました。
 昭和10年代になると、戦時体制が強くなり、青年団は学徒隊などの団体に組み込まれていきましたが、戦後はあらたな青年団が全国各地で結成され、昭和20年代後半には青年団団員数が最も多くなりました。
 成人式も、昭和21年に埼玉県蕨町( 当時)の青年団が主催となって行った第一回成年祭が成人式の起源といわれています。 
 『余市町郷土誌』を見ると、学校を卒業した男子は青年団に入る前、満20歳まで青年訓練所へ在籍しました。余市町の青年訓練所は昭和元(1926) 年に創立され、その活動は神社参拝、神社や墓地の除雪、図書の購読会、弁論会、見学旅行などがありました。
 同訓練所は町内の大川、澤町、山道、沖、登、畚部( ふごっぺ) の各尋常高等小学校( 現在の中学2 年生の年齢までの学校) にあって、卒業後、希望者が青年訓練所に在籍したようです。
 20歳になった青年が入団した青年団は、浜中町にあった役場内に事務局がありました。
 大正3(1914)年8月25日設立の余市町連合青年団が、昭和3(1928)年7月に統合されて余市町青年団と改称されました。
 各青年団は畚部、登、黒川、北辰、黒川町、大川、澤町、出足平、下山道、山田、沖(島泊含む) の各地区にありました。青年団の活動は前掲書によると、講演会や講習会、展覧会等の開催、各種の競技会、見学旅行、奉仕事業、篤行者の表彰などで、活動にかかるお金は団員の個人負担、町からの補助金、篤志者からの寄付からなっていました。
 女子青年団もありました。余市町女子青年団は大川町番外地にあって、もともとあった町内各小学校出身者で構成された「処女会」が同2年に統合、余市町女子青年団が創立されたものでした。 家事、技芸、精神修養、保険育児衛生等の講演会、講習会、公共事業、敬老会や慈善会への奉仕事業、展覧会、遊戯会、娯楽会、談話会を開きました。
 青年団の始まるきっかけが『登郷土誌』に見えます。明治35(1902)年頃のこと、登地区に賭博が流行し、他所から本職の「バクチ打ち」が入るようになりました。
 この事態を何とかしようと地元の青年有志が賭博追放を目的にした組織を結成したとあります。
 結成時の団員は10名ほどで、監視や取り締まりが奏功して賭博が無くなったそうです。
 また大正のはじめ、登小学校よりも内陸に「登奉守義団」という青年団が結成されました。この青年団の団員が住んでいた範囲が、地区の八幡神社の氏子さんの居住範囲と重なったので、「氏子青年団」と呼ばれ、秋のお祭りでは団員による歌舞伎や狂言が催されました。
 青年団活動は、道路整備、地区住民や学校の燃料用の薪の調達、除雪などの奉仕活動と、農業技術、珠算、趣味などの講習会といった自己研鑚を目的にした活動が主なものでした。こうした集団での活動を通して、先輩から後輩へ、社会人としての自覚や地域の連帯意識が受け継がれていきました。
 
▲写真:登女子青年団
   
(『登郷土誌』昭和16、17 年頃)