その125  昭和40年代のお正月  

 あけましておめでとうございます。昭和40年代、余市町広報の1月号は、北海道知事や町長などの新年の挨拶と並んで、新春座談会が多く掲載されました。
 昭和41(1966)年の新春座談会は、海野町長(当時)を囲んで、町内で働く方々(商業、農業、教員、事務職員)と新成人2名の計9名が出席して行われました。討論の糸口として、住民の8割が住みやすい町と感じていること、若者が文化施設が少ないと感じていることがあげられました。
 「住むなら余市という言葉をよく聞きますが、ただ文化施設がないということを若い方からよく耳にします。たとえば図書館がないとか...」
 参加者からは図書館の他に、大集会場、公衆便所があるとよいという意見が出ました。
 それに対しての町長の答えは「町としては、図書館と、さらには博物館もつくって青少年が郷土を愛し、余市の尊さを学んでもらいたいと思っています。場所は、浜中の漁業協同組合の事務所であったところをゆずっていただいて図書館向きに改造したいと考えております。」でした。
 町長はまた、小型バスを使った移動図書館、体育館(当時)を拡充させた大集会場、公会堂を併設させた役場庁舎への建て替え、野球場やテニスコート、「300mくらいのトラック」がそろった運動公園を実現させたいと発言しています。それから時間は経過しましたが、昭和46年に運動公園、昭和54年に大ホールをもった中央公民館、昭和57年に総合体育館、平成3年に図書館が完成しました。
 昭和47年1月号では「新春放談‐町長を囲んで」と題して、在町記者団が集まりました。副題は「将来展望にたった町づくりの夢を語る」でした。在町記者団とは、北海道新聞社余市支局、北海タイムス余市支局、毎日新聞小樽支局、余市新聞社の4名の記者でした。
 小柄町長(当時)自身にとって、最も頭を悩ます問題が町の人口問題でした。それをうけて北海道新聞余市支局長の近藤さんから、昭和46年10月以降の調査で余市町の人口が後志管内で唯一増加していること、その理由として、「それを分析してみると、まず魚雷艇基地の設置をはじめ、水産加工場の誘致、縫製工場の進出の三つが主な要因なんですね」との指摘がありました。
 町民のなかに、東部と西部とに分けて考える傾向が強いことが前からあって、それをなくするために町長が考えたのは、「だからぼくは、役場から上る道路と時田山から上る道路とそれからヌッチ川の横から上る道路をなんとかしまして、この山の上が余市町のほんとうの高級住宅団地ということにしたいと思うんです。これをやらない限り東部、西部ということばは永久になくならないんですよ‐」と住宅団地造成にむけた意欲をあらわしています。
 昭和40年代の余市町は、国道の舗装化や上水道整備がほぼ一段落した昭和30年代が終わって、文化施設建設や住環境の改善が目指された時期だったといえます。
写真 広報よいち1月号の表紙(昭和47年)