その123  余市リンゴのロシア輸出  

 明治の終わり頃から大正まで、余市産リンゴがロシアへ盛んに輸出されていた時期がありました。北海道の対岸、ロシアのウラジオストックへの輸出は、明治36(1903)年に設立された大家商船による函館発の定期航路が開かれたころに始まったようです(『函館市史通説編第3巻』)。余市リンゴのロシア輸出は同39年頃には活発に行われていたようで、リンゴを商う商人のうち輸出専門だったのは大川町の服部さん、生産者では山田町の高山さんの名前が見えます(『りんごさむらい』)。  昭和41(1966)年の広報よいち5月号に「今は昔」と題して、服部精介さんのお話が見えます。「当時ウラヂオには二〇軒ほど日本の問屋があり、私たち国内の輸出業者はこの問屋さんに販売を委託して輸出していたものです。その頃は貯蔵の設備が現在のように発達しておらず自家の倉庫や鰊場の石蔵、土蔵などを冬の間だけ借りて貯蔵したものですが、青森ものは四月以降はボケてしまい余市ものは、春が遅いだけに肉質が長もちするので、春は余市産が大部分を占めておりました」とあります。
 服部さんの回想談では、香りのよいもの、黄色いものがロシアの人たちに好まれたこと、リンゴ収穫時期のすぐ後に輸出すると高値にはならないので、出荷時期をずらす工夫をしたことが述べられています。  服部さんの回相談をさらに見ると「輸送は、交通丸と云う貨物船が運行していましたが、青森-小樽-ウラヂオの順にコースをとっておりましたが、帰路はその時により変っていました」とあります。この交通丸は大阪商船(大家商船が吸収されたもの)の貨客船で、同社はウラジオストックへの定期航路を持っていました。小樽新聞によると、この回航船は毎月1便が小樽、ウラジオストック、石川県七尾、新潟を回り、同船は別便で函館、小樽、ウラジオストックの航路もありました。  服部さんによると、輸出時の検査は民間の「北海道りんご、たまねぎ輸出組合」が自主的に行い、等級は特等、一等、二等、三等の4つに分類され、リンゴ同士がぶつからないように箱の中に詰めたものは余市産リンゴでは「のこ屑」が使われ、青森産は「もみから」が使われたそうです。
 取引は、農家からの買値が一函1円位で売値が5円ほどだったので、もうけが多い商売と思われていましたが、輸送賃や仲介者へ払う手数料を考えると、利潤が多いものではなかったそうです。  順調に続いたリンゴ輸出でしたが、大正6(1917)年のロシア革命によってその途は途絶え、それまで蓄えていたルーブル紙幣が紙くず同様になるなど、関係者の落胆は大きいものでした。
▲画像:ウラジオストック