その122    野口雨情と茂入山

 『海は紫空青々と 朝日かがやく茂入山』
 野口雨情が余市を詠んだ短歌のひとつです。雨情は本名を英吉、明治15(1882)年に茨城県北茨城市磯原町に野口家の長男として生まれます。東京専門学校(早大の前身)を中退、詩人を目指しますが名声を博するには至らず、父の死により家督を相続します。同40年には北海道へ新聞記者として渡り、故郷へ戻った同45年以降も詩作活動を続け、大正になって詩集『都会と田園』を出版、大正8(1919)年には「おれは河原の枯れすすき~」の「船頭小唄」を作詞します。続けて「七つの子」「赤い靴」「雨ふりお月さん」などの童謡を作詞して脚光を浴びます。この後も童謡や歌謡曲、地方民謡などの作詞を数多く行ない、昭和10(1935)年には日本民謡協会を再興し、理事長となり、童謡、民謡普及のため全国各地を巡りました。しかし同18年には病に倒れ、その2年後に63歳で亡くなりました。
 全国各地への講演旅行を行った雨情は、昭和15年の夏、二度にわたって来道し、札幌、層雲峡、釧路、留萌を訪れ、各地方の地名を冠した地方小唄を残しています。この際に余市にも立ち寄り、余市岳や茂入山、大川橋を題材にした短歌を残し、直筆の書が軸装としてのこされました。
 書の箱書きや関係者の証言などから雨情が大正時代に来町して揮毫したものという説もありますが、雨情が余市に訪れて三つの書を残したのは、前述した昭和15年の来道時と思われます。
 「海は…」の短歌は、朝日を浴びた茂入山を大川町方面から望んだものなのでしょうか。余市水産博物館前に歌碑が建立されています(写真)。茂入山は、昭和8年刊の『余市町郷土誌』に余市町の「名所及景勝地」のひとつとして、シリパ岬、ローソク岩、丸山公園、鮎場などと共に紹介されています。
 同書には、茂入山の海側に突出した部分が70mを超えて絶壁をなしていて、頂上にはつつじ、桜、楓等色々の木々が自然の公園をなしていること、眼下に見えるのは「余市大平原」、「限りなき稲田、果樹、野菜園」の景色、大きな弧をえがく余市川の流れ、「幾多の河跡湖(蛇行する余市川がのこした三日月湖)」、たくさんの小舟、漁船、近海航行の発動機船が眼下の茂入港から出入りする様子、大川と黒川町の市街地、西方のシリパ岬と沢町市街地、と多くの眺望を楽しめることを指して「天然の遊園地」にたとえています。また、当時、町の有志が植樹し道路を作り、青年団や「在郷軍人分会」が「大国旗掲揚場」を設けたこと、明治神社と「軍人五ヶ條勅諭」の聖碑(石碑)があり、アイヌ民族の聖地としての伝説ものこっていることなどがあって名所にふさわしいと讃えています。茂入山は冬にはスキー場としても利用されてもいました。また明治神社裏の山は文武山という名称だったことも書かれています。雨情の詠んだ茂入山の景色には、今では見られなくなった自然の風景や旧市街地、茂入港、往来するたくさんの船がありました。
写真 野口の歌碑