その121    マッサン、余市へ

 竹鶴政孝さんがニッカウヰスキーの前身、大日本果汁株式会社を創設してから今年で80年を迎えました。理想のウイスキー作りを思い立ったのは大学を卒業した22歳の春のこと、40歳で余市町にウイスキー蒸留所を建設するまで18年を超える年月がかかりました。
醸造学を学んだ大阪高等工業学校(後の大阪大学)を卒業後、スコットランドへ派遣してくれた大阪の摂津酒造を退社したのは大正11(1922)年、28歳のときでした。
 この頃には、ウイスキー作りの適地はスコットランドに風土の似た北海道だというのが竹鶴さんの持論になっていました。
 竹鶴さんは持論を、10年契約で翌12年に入社した寿屋(後のサントリー)の鳥井信治郎さんへお話ししましたが、北海道はあまりにも遠く、近隣でいくつか挙がった候補地から、水のよい大阪府山崎に蒸留所建設が決まりました。
 同社の最初の国産ウイスキー「白札サントリー」が発売されたのは昭和4(1929)年のことでした。
この2年前、竹鶴さんは自身のノートにウイスキー工場建設の予定地を江別市に決め、そこが適すると考えた理由、工場用地の購入額を見積もっています(「余市町でおこったこんな話 115話」)。ノートの日付が「白札」の発売前なのは、成功を確信して寿屋北海道工場建設を目論んだのか、10年契約が終わった後の独立の準備だったのでしょうか。
 その後、江別市の工場予定地が氾濫の恐れがあることがわかったので、そこでの建設をやめ、余市町に決めました。「(余市町は)林檎の産地である。ウイスキーが商品化するまで、ジュースを作って食いつなごう…(後略)」(『ヒゲのウヰスキー誕生す』)
 町の主要な産物となっていたリンゴでしたが、竹鶴さんが余市町に工場建設を予定していた頃には、他産地に商圏をおびやかされたり価格の変動があったりと生産者は不安を感じていました。そんな時、余市町の但馬八十次さんの誘致があって、竹鶴さんが工場建設を計画すると、余市町農会(後の農業会、農協)は総代会を開き、工場設置を歓迎することが満場一致で決まりました。
 工場予定地は大正時代に工事が終わった余市川埋立地近くで、昭和8年の住宅地図では埋め立て後に移り住んだ人や新しい商店名は見られず、魚肥の干場(乾燥させるところ)や畑があるだけの土地でした。「雑草と土塊におおわれた荒蕪地は沼に続いており、沼は中州をへだててそのまま余市川へつながっている。葦の原には水鳥が舞い降り、沼からは突き刺すような冷気が立ち昇っていた」(『ヒゲのウヰスキー誕生す』)
 工場建設中のことを覚えている方によれば、冬の間に農家の人たちが馬そりを出して、三吉神社の近くからニッカ敷地まで土砂を運ぶ手伝いをしていて、竹鶴さんはそうした農家の方々への感謝を忘れず、熟する前に落果してしまったリンゴを買い取ったこともあったそうです。もしも予定通り江別市にウイスキー工場が出来ていたら、大日本果汁株式会社の名前は違っていたかもしれません。
 「その余市に居を移して、一番喜んだのは妻のリタだった。気候や、風景がスコットランドと似ており、特に朝、夕の感じがそっくりなのである。」(『ウイスキーと私』)

▲写真:ニッカ敷地内の中島からの様子