その113      フゴッペ 
 
 余市町東部、小樽市と隣接する栄町地区は、かつて「畚部」の文字をあてて、フゴッペ村と呼ばれていました。フゴッペはアイヌ語地名で、その地名は今でもフゴッペ岬やフゴッペ川、フゴッペ洞窟、フゴッペ橋などにのこっていますが、語源はよくわかっておらず、「波の音が大きいところ」、「番をするところ」などではないかといわれています。
明治時代以降の畚部村の範囲は、海岸線では小樽市蘭島との境界である現在のフゴッペトンネルから、大川町手前までの広い範囲をしめていました。
 昭和2(1927)年10月8日、国指定史跡フゴッペ洞窟の線路側の岩肌に、顔のかたちをした岩塊と人の形を線で描いたような刻画がいくつか見つかりました(下図)。発見したのは、国鉄(当時)蘭島駅保線勤務の宮本義明さんで、保線工事の土砂取り作業をしていたときのことでした。古くから小樽市手宮の手宮洞窟の岩面刻画が「古代文字」と呼ばれていたため、「フゴッペの古代文字」と言われたこともありました(「古代文字」余市町でおこったこんな話 その76)。
 余市町出身のアイヌ民族の歌人、違星北斗はこの「フゴッペの古代文字」を指して「奇形文字」と呼び、氏の著書である『コタン』中の1章「疑うべきフゴッペの遺跡」で、「我等アイヌにとっても奇怪な謎であった。」と述べています。
同書中には、フゴッペの語源や付近に住んでいた人々についての言及があります。そこには「鍋を持たない土人(ママ)がゐ(い)て生物(なまもの)ばかり食べてゐた」ことを理由にして、その土地を余市アイヌは「フーイベ」と呼んでいたこと、また同じ土地を指して、そこに蛇がたくさんいたので小樽市忍路のアイヌ民族は「フウコンベツ」と呼んでいたともあります。
違星がアイヌ民族の古老に聞いたことに、フゴッペにはアイヌ民族とは別の人たちが住んでいて、彼らを「クルプンウンクル」と呼んでいたのだそうです。「クル」とは「岩」で、「あたかも水際の岩の下にでもゐるような人種」の人々が住んでいたという伝承を違星が聞いています(前掲書中)。
フゴッペ岬の先端近くにはフゴッペチャシ(チャシ:アイヌ民族の設けた施設で砦、館、柵、柵囲いを示す)があったという伝承ものこっています。そこには、兄のリコマアイヌ、弟のラワンケ、妹のコクッテシマツという兄弟が住んでいました。彼らは意地悪で、岬の近くを人が通ると上から石を落として悪さをするので、忍路と余市のアイヌ達は何とかその兄弟を追い払いたいと考えていました。ある年の春、ニシンが大量に浜に寄せました。忍路アイヌの一人がフゴッペチャシの崖近くを通った時に、キラキラ光るニシンの鱗が一筋の線になってチャシの方へ続いているのを見つけました。それはリコマアイヌ達がニシンを束にして結わえたものを担いで登った跡でした。この跡をたどって余市と忍路のアイヌの人たちがチャシを攻めて兄弟を殺したので、それ以降、そのチャシは使われなくなったといわれています(『アイヌ伝承と砦(チャシ)』)。

 ▲図:「フゴッペの古代文字」(旧フゴッペ彫刻模写図『フゴッペ洞窟』)