その112      余市新聞  
 
 大正10(1921)年12月20日、「よいち」準備号が発行されました。一面の大きさはおよそA3版ほどの縦型で、題字(題号)にはカモメの舞うローソク岩をかたどったデザインに「よいち」の文字が見えます。8面の構成で値段は一部10銭、一年間の購読料は1円、発行は松本石太郎さん、発行所は余市町大字仲町53番地のよいち社となっています。月一回の発行で始まり、同11年の4月からは5日、20日の月2回発行となりましたが、短い期間だけ発行された新聞だったようです。
 題字下にある同紙の綱領(方針)には、立憲思想の普及、社会教育の改善、余市築港の助成、国民思想の善導、文化生活の鼓吹(こすい:意見や思想を唱えて広く賛成を得ようとすること)、産業振興の奨励の6つを挙げています。
 第一面の「創刊の辞」には、「人口二万を有する吾(わ)が余市」に新聞のないことが残念で、郷土の緊急の問題である余市港と中学校(後の高等学校)の建設に向けた世論を盛り上げるための新聞発行を目指すとあります。余市港建設と中学校設立の声は新聞創刊の10年ほど前からあって、いまだに前進しないのは、「余市人士はいつも引込思案で町の事業は消極に流るる」からで、後進の他町村に先を越され、また「天然に地理的の恵み多きために一般町民は惰眠をむさぼり保守に流れ受動的」なためなのだと述べています。その中学校設立問題について、第二面の「時論 余市中等学校問題に付て今一般の努力を要す」に、当時の町内の児童数が4千余りを数え、70名以上の進学希望者があり、設立のための「期成同盟会」が結成されて町民大会も開かれたことから機は熟していて、寄付金は「芸妓や酌婦に投げる金」と違って、何倍にもなって帰ってくるとあります。
 第四面は読者から原稿を募集して構成する文芸欄(短歌、俳句、童話、民謡を募集)、第七面に水産と農業関連の記事、第八面は「よいち商況」として、海産商況、雑穀商況、荒物相場(お米と味噌の相場)があります。
 年が明けた同11年1月30日、いよいよ第一号が発行されました。一面トップは、漁民を水難事故から救助するための「余市救難所」(余市町でおこったこんな話その91)への町からの補助金増額を願うものでした。
 解決するべき大問題だった余市中学校建設は、大正13年度に学校創設が決定されました。この「よいち」による世論が関係当局に影響を与えたかは不明ですが、すぐに同紙は次に解決するべき問題として、高等女学校建設をとりあげています(高等女学校は翌12年に創設)。また第四面には、「芸妓や酌婦に投げる金」よりも寄付金をとやり玉にあげられた町内の芸妓一同から新年のご挨拶が寄せられ、また第五面には「花街たより」という記事も見えます。
 同紙はこの年の4月から題号を「余市新聞」と改名し発行を続けました。町が抱える様々な問題を論じる体裁は変わらず、余市港の早期建設、電気料金の高騰や道路の不便さなどを取り上げました。
 昭和8(1933)年からは、同名の余市新聞(創刊時は余市商工新聞、毎週日曜日発行)が発行されているので、その前には使命を終えた新聞のようです。

 
 ▲画: 「よいち」 第一号(左)と 「余市新聞」 第五号(右)の題字