その108     米づくり   
 北海道で水稲の栽培が始まったのは明治以降のことですが、開拓事業を担った北海道開拓使は畑作の普及に熱心で、稲作には否定的でした。お雇い外国人のホレス・ケプロンも「米は栽培に費用がかかり、その養分は他の穀類に劣っている」との報告をのこしています。
 道内で稲作がはやくから見られたのは、大野村(現在の渡島管内北斗市)など道南地方です。道央では、明治6(1873)年、札幌郡月寒村の開拓者中山久蔵が大野村から取り寄せた苗の試験栽培に成功しました。それから30年以上経った明治37年頃、夕張郡長沼村から余市町と仁木町にまたがる地帯に移住してきた団体がありました。もともとは北陸方面から移住してきた彼らは、「現駒谷農場、元毛利農場の一部に苗代を立て水稲の試作をなせるに、一反歩四、五俵の収穫あり、之に力を得て更に空知管内より該農場に移住するもの十二、三戸に及びこれに本町水稲の端緒を得た。」とあります(『余市郷土誌』)。
 この駒谷農場の広さは、南側は仁木町一番地(バス停「仁木北町」付近)から、北側は旧登川(北星余市高校南側)まで、東側は登川の左岸(モンガク地区付近)から、西側は国道5号線付近までの広大なものでした(余市町でおこったこんな話第56話、同57話参照)。黒川・八幡地区の『郷土誌』ではここを余市町の米作り発祥の地としていますが、町内ではほかにも栄町や豊丘町、梅川町でも稲作への試みが行われました。
 豊丘町では、明治10年以前、和田九郎助さんが稲作を試みました。「祖父権次郎が明治8年に来た時に九郎助が水田作りをしていた、とよく聞かされました。でもとれたり、とれなかったりしたようでした」(『郷土史』)。同じく豊丘町で、明治25(1892)年、「豊丘農業の父」と言われる宮本辰蔵さんが、約30アールの水田を種谷地区にひらきました。それまでは、イモや麦等に頼っていた苦しい生活だったので、「もし米がとれるものなら」と期待してのことでした。結果、この年はかなりの米の収穫があったといわれます。
 栄町でも明治26年頃から試作がはじまっており、同30年代にかけて造田が盛んになりました。
 『栄町郷土史』によると明治30年代から大正のはじめにかけて、西崎源吉さんが栄町の相生橋から海側にかけての15町歩(約15ヘクタール)を小作人に命じて造田しました。
 明治20~30年代、余市町の米の収穫高は順調に拡大しました。明治28(1895)年にはわずかに33石の収穫高だったものが、5年後の同33(1900)年には178石、8年後の同36(1903)年には、3,438石と大幅に伸びました。
 同書には、昭和20年代後半、栄町地区の田植えの際に皆で労力を貸し合う「手間がえ」の様子が描かれています。
 「田植えが終わると、夕食時、土間にリンゴ箱を並べ、その上に板をのせて椅子とし、飯台にはごちそうがならべられた。酒を呑み、酔うほどに歌をうたい、にぎやかなものであった。」


 
 写真:黒川町の田植えの様子(時期不明)