その107      豊丘小学校   
  町内には現在、5つの小学校があります。この他にも、明治時代には、山碓町(港町付近)に私立愛親学校が、沖村(豊浜町)には湯内学校(後に尋常小学校)が、島泊(潮見町)には同校の分教場、山道(豊丘町)には簡易教育所がありました(『余市町郷土誌』ほか)。
 明治17年の記録を見ると、当時もっとも大きかったのは沢町学校で生徒が315名、次いで大川学校が65名、大川学校黒川分校が48名となっています(『学校設置開申書綴』)。
 これらの学校の他に豊丘町にも小学校がありました。このコーナーの第28話、「豊丘の二宮金次郎」で紹介した豊丘小学校のはじまりも、沢小などと同じく寺子屋式の私設のものだったようです(『郷土史』豊丘町郷土史編さん委員会編)。明治39年には下山道簡易教育所ができ、後に下山道尋常小学校になりました。前掲書によると、敷地は有志によって寄付され、校舎は民家を模様替えした教室がひとつの学校でした。当時の回想も見えます。「当時の机や椅子は2人がけの長いものでした。教科は読み、書き、算術の3つでした。生徒は石板に石筆で字を書きました。石板というのは、石を薄くけずり木のわくに入れたもので、今のノートのかわりです。…(中略)…学校から帰ると私たちは、今のようにスポーツなどもなく、コマをまわして遊ぶぐらいでした。4年生を卒業すると今の余市町役場の上のほうにあった高等小学校に通いました。そこで一番困ったことは唱歌や体育で、これは簡易教育所ではおそわらなかったものでした。」
 大正時代から昭和のはじめにかけての豊丘小学校の様子も同書にあります。教室は二つあって、ひとつは休み時間の子どもたちの遊び場用、もう一つの教室に全校生徒50名ほどが入って一緒に勉強しました。授業を教える先生は校長先生ひとり、奥さんが高学年の女子に裁縫を教えていました。先生が不在の時は高学年の子どもが代わって教えたこともあったそうです。はじめての運動会は昭和3年のこと、グラウンド代わりに近くの水田を借りて行われました。
 昭和6年、同校は山道尋常小学校に改称され、同年8月に現在の下山道神社の隣へ移転されました(この年の生徒数は81名)。
 豊丘地区の奥にあった住友余市鉱山の子どもたちも山道小学校まで通っていましたが、遠距離通学でした。このため同12年には鉱山の職員宿舎を仮校舎として山道小学校分教場がつくられ、2年後には桜ヶ丘小学校が完成し、沢町小学校から鈴木繁雄先生が赴任して初代校長となりました。
 同38年の鉱山の閉山に伴って、翌39年には桜ヶ丘小学校も廃校となり、同校が持っていた設備の多くは豊丘小学校が譲り受けることになりました。その中に、かつて鉱山と住宅地区に音楽やお知らせを流していた、とても高価な放送設備があり、授業の始まりと終わりに鳴らしていた鐘のかわりにその設備が使われることになりました。同年11月22日早朝、学校に備え付けられたその放送設備から、豊丘地区に「ウエストミンスター寺院の鐘」というやさしいメロディが広く流されました。


 
 写真:豊丘小学校新築校舎落成を祝う人々