その106     競馬場と馬頭観音   
  「余市町でおこったこんな話 その83」で荷物輸送に活躍した馬のお話などを紹介しました。今回はかつてあった競馬場や、町内に残る馬の供養碑について紹介します。
 古い記録を見ると、町内には時期を違えて、少なくとも3つの競馬場があったようです。ひとつは国道5号線の海側、大川町と栄町の境界あたりの大浜中地区にあり(現在の登川河口の近く)、ここは昭和10年代の観光地図でも確認できます。もうひとつは美園町の丘の中腹にあって、今でも美園の競馬場跡と呼ばれています。3つ目は警察署の裏山で、昭和30年代に行われたばん馬競走の写真がのこっています。ばん馬競走はそりに乗った騎手が馬を操縦して障害を乗り越えるもので、そうした競技方法は明治時代の末に登場しました。その起源は木材を運び出していた馬の力比べで、2頭の馬を丸太につないで引っ張りあわせるものだったそうです。
 古い記録では、大正時代の亀田八幡宮(現在の函館市内)や五稜郭公園でのばん馬競走がのこっています。帯広の公営競技が有名ですが、道内各地の草競馬では、平成以降でも阿寒・釧路輓馬(ばんば)競技大会(阿寒町)や北斗市大野支部定期ばんば大会(北斗市)などが開催されています。
 大浜中地区の競馬場は『大浜中の百年』に詳しく、同書からそのまま引用すると、「大正9(1920)年頃、今の大川20丁目から栄町7番地まで国道北側の海岸に馬匹(ばひつ)遊牧場ができた。牛馬商組合がこしらえたもので、大正11年頃、ここで草競馬を見た記憶がある。人々は馬匹遊牧場などといわず「競馬場」と呼んだ。なかなか盛んで、大浜中の青年団は基金造成のため売店を開いたものである。また若い騎手と町の娘のロマンスで話題をにぎわした事もあった。正式な競馬場でないから馬券を扱うことは出来なかった。一、二度開いた草競馬も其筋から差止めを受け、続けるわけにいかなかった。」
 大浜中地区の競馬場は、昭和6(1931)年に起きた満州事変以降、軍用馬の候補となった馬の訓練場として、戦後はばん馬の競馬場として使われたと同書にあるので、大正から戦前までは、そりをひかせない、一般的な平地競走が行われていたのかもしれません。
 昭和8年刊の『余市町郷土誌』に馬の飼育数が見えます。飼養戸数は364戸、頭数714頭、内訳は和種6頭、雑種684頭、洋種24頭とあります。ちなみに同じころの乳牛の頭数は74頭、搾乳する牧場の数は農家、搾乳業者あわせて19戸でした。
 美園の競馬場跡地には美園馬頭尊があります。馬の健康や死んだ馬の冥福を祈るために大正13年に家畜保存同志会によって建立されました。近くには獣魂碑(昭和60年建立)もあって、地域の人々にとって馬がいかに大事な存在であったかがわかります。こうした「馬頭尊」や「馬頭観音」と刻まれた石碑は、美園町の他にも沢町や梅川町、栄町、豊丘の6つが確認されています(『余市町の石碑』)。
 馬と人との関わりは、町内の地名にも見られました。現在の余市駅の東側のにれの木通りはかつて馬車道通りと呼ばれました。また大浜中地区にあった馬車道通りも、昭和30年の地番改正までのこっていました。地名としての「字大浜中馬車道通り」と南に隣接する「字大浜中土場(どば)」との境界線が南三線で、かつてこの道路は大浜中地区から三吉神社まで伸びていました。



 
 写真:警察裏山のばん馬競争 
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