その104      余市芸者の座談会   
 昭和27年2月の『月刊郷土誌よいち』に、「生粋余市芸者の座談会」が見えます。同誌編集部の3名が、芸者さん4名と座談会を催しました。芸者さんは、宴席に招かれて、三味線の伴奏や唄と踊りを披露したので、一人前になるには修行が必要でした。
 座談会に登場する芸者さんは料亭「白ぼたん」のお幸姐さん、「よしのや」の千枝子姐さん、「たつみ」の小高姐さんと高二姐さんでした。
 お幸姐さんは「…子ども心に知って居ますが、沢山の芸者さんが、車や馬車で賑やかに新墾(新しく開かれた土地)の街を通っていました」。別の姐さんは(その頃の芸者さんの数はという質問に)「さあ五十人位はずらりと…」と答えています。
 明治時代の沢町では、円山公園の坂を下ると、「辻村楼」、「久丸」、「開花楼」など8つの料亭や貸座敷が軒を連ね、多くの芸者さんがいました(『余市花街物語』)。同書によると芸者さんは江差方面から来た人たちでした。なかでも芸者さんなど40名を抱えていた「辻村楼」(写真)は近隣で最大の規模でした。
 明治20年代の大川町では「梅川楼」、停車場通りにあった「思君亭」、7名の芸者さんがいた「青柳楼」、「千代乃家」がありました(『後志国要覧』)。「千代乃家」の主人は江差の人で、もともとあった料亭「藤の家」を買い取って開店したものでした。
 同店はニシン漁の親方が多く通い、「芸妓十数名を抱えて江差追分の唄と踊りで有名」になりました。これらの料亭や貸座敷が並んだ通りは、現在の大川十字街よりも海側に国道と平行した通りで、桜小路と呼ばれていました。「千代乃家」は桜小路の中心的な料亭で、百人以上を受け入れることができ、「いくら飲んでも年一回の支払いで」よかったそうです。
 また、沢町の市川呉服店に京都から新しい柄の着物が入荷すると、それらは「千代乃家」へ運ばれ、女将の千代さんが芸者さんや女中さんの柄をひとりで決めていたそうです。桜小路が賑わいを見せたのは、沢町よりも少し後でしたが、明治35(1902)年の余市駅開業、リンゴ移出の活況、明治42年の沢町大火によって大川町へ転居する人たちが多かったことなどで、お店が増えていきました。
 この頃には「見番(料亭からの芸者さん派遣を受ける事務所のようなところ)」も「余市芸妓置屋連中」によって設立されました。前述の座談会でのお話には、修業時代の苦労話もあります。長唄や踊りの修業に、だいたい3年くらいをかけると一人前になりました。「(修業のつらさは)女学校どころの騒ぎじゃないんです。…(中略)…寒稽古というのがあって、朝のうちから、窓を放って火鉢なしで唄うんです。それが一ヶ月も続きます。それに師匠よりも家の姐さん方がきびしかった。私なんか辛くて十五の年に実家へ逃げてきたこともありました。」
 どんなお客さんが嫌いですかという質問には、千枝子姐さんが次のように答えています。「朗らかでない人、偉らぶる人、せっかく遊びに来て、社長風を吹かして連れの人を頭で命令するような素振りは虫酸が走るわ。」
 
 写真:辻村楼(『後志国要覧』より)