その103      ニシンの後  
 北海道沿岸に昭和30年代はじめまで賑やかだったニシン漁でしたが、南から徐々に漁獲高はかげりを見せ始めました。余市町でも明治から大正時代までは大漁に沸きましたが、昭和に入ると豊漁と凶漁の波が激しくなります。
 大正15(1926)年に約5万8千石(1石は750キロ、生ニシン換算)だったものが、昭和2年には半分以下の約1万9千石、同4年にはわずか8石、同10年には漁獲がまったく無くなります。大正時代から日本海沿岸各地の漁業者は、道南から激減しだした漁獲量に、ニシン漁の将来性を不安視していました。
 ニシンが取れなくなった理由ですが、北海道水産試験場本場(当時。現北海道立総合研究機構水産研究本部)の平野義見さん(本欄『ニシンの神様』で紹介しました)らによると、その理由を「海洋環境の変化」、特に「冬季間の温暖化」にあるとしています(近藤平八さん「にしん・さけ・ます調査」『北水試百周年記念誌』)。
 平野さんと一緒にニシン漁況の予報を担当された近藤さんは、前掲書中で、「(ニシンは)環境条件に敏感でときに行動範囲を広げて莫大な数量となるが、ときに破滅的に減少する」という平野さんの論説を紹介しています。
 また、「とりすぎ説」や「森林資源のらん伐説」を総合して、「海洋環境の変化」がニシンのいなくなった理由であると述べています。
 余市を含めたニシン凶漁地帯の漁業者はニシン以外の生業に生きる途を見出します。北海道は将来の対策として「春ニシン地帯綜合開発計画案」を作り、沖合漁業への転換、多角経営の普及などを目指しました。 刺網漁船をもっている者へはカレイ刺網、こうなご棒受網、サンマ流網を、沖刺網では、サンマ流網、マスはえ縄、スケソはえ縄、サンマ棒受網などを奨励しました(『続北海道漁業史』)。
 道の指導を受けて、余市郡漁協ではひとつの試みとして、昭和11年、イワシの流網漁をはじめました。水産試験場の技術指導もあり、組合でも積立金から2500円(当時)を資金として、発動機船を有する5名に貸し付けました。
 同年6月の初出漁では、積丹沖へ宝栄丸、宝永丸などが向かい、まずまずの漁獲をあげ、翌年には32隻が出漁して連日大漁が続きました(『余市漁業発達史』)。
 昭和20年代からはサバのまき網漁、30年代になると、定置網によるブリやマグロ漁が盛んな時期がありました。昭和56、57年はマグロが豊漁で、100キロを超えるマグロが60本もとれたことがあり、余市町でも1尾700万円の値がついたこともありました(『北のロマン』)。
 
 写真:マグロの定置網漁(昭和50年代)