スキーシーズン到来です。「余市町でおこったこんな話」の第80話は、余市町のスキーのお話でしたが、今回は余市高校スキー部の思い出と活躍ぶりを『余高五十年』などから紹介します。
 余市高校スキー部の創部は大正14(1925)年、昭和11(1936)年には山岳スキー部に名称変更、翌12年に陸上競技部と合体し競技スキー部となりました。
 昭和17年に小樽市でスキーの全国大会が開催されました。当時の新聞記事を見ると、回転競技で余市中学校(余市高校)の茶木選手が3位、新田選手がジャンプで6位、斥候競争(4人が一組で銃と砂袋を背負って10kmをスキーで走り、途中の崖ではスキーを脱いで登り、25m離れた的を狙った射撃、手りゅう弾投げを行う競技)では5位に入賞しました。
 昭和20年代半ばにスキー部顧問だった今村先生は、「生徒が飛ぶのに部長たる自分が出来ないのは許せない」ので、ジャンプ未経験者でありながら周囲の反対を押し切って、大倉山の大会に出場しました。先生のジャンプは「飛んだというより落ちたという感じ」だったと卒業生が回想しています(『余高五十年』)。
 昭和27年、旭川市であった全道高校スキー大会で、余市高校は初優勝を飾りました。しかも長距離、複合など5種目で競う総合優勝を複合と純ジャンプの2種目の上位入賞だけで得点を稼いでの初優勝でした。余市高校は複合で渡辺選手が優勝、新田、佐藤、久蔵の3選手も入賞し、純ジャンプでは旭川市銀の沢シャンツェのバッケンレコードを打ち立てて笠谷選手(兄)が優勝、2位渡辺選手、3位新田選手と上位を独占しました。この頃の指導者が東中学校の校長先生だった長田光男さんで、先生は余市ジャンプの「育ての親」といわれました。昭和22年に赴任された先生の指導の下、多くの名選手が輩出されましたが、この当時のエースが前述の笠谷選手でした。前掲書によると、大倉山シャンツェで行われたディーン杯争奪ジャンプ大会で「なみいる強豪をしり目に、わが余市高校の何と無名の新人がただ一人60mラインを越え、タイトルをさらってしまった。」のでした。
 昭和30年代も藤沢、笠谷(弟)選手らの大活躍があり、余高スキー部の名声は揺るぎないものがありました。昭和35年度から4年間、スキー部顧問だった前田先生の回想があります。名門余高スキー部の顧問に就任するときに、先生が感じられた重圧は大変なもので、「胸ふさがる思い」だったそうです。先生の回想によると当時のスキー部の礼儀や規律正しさは先生方も「舌を巻くほど」で、全校の模範でした。約一ヶ月におよぶ年末年始の合宿期間、夜10時の消灯、朝6時の起床は軍隊並みの緊張感でした。先生はお酒が飲めない辛さを感じましたが、朝4時からご飯を炊いている1年生の苦労を見て、「そんな泣言などぜいたくというものである」と述べられています。
 スキー部は部員数も多く、選手間の実力も伯仲していたので、大会に参加させる選手の人選に先生は悩まされました。また、全国大会に出場すると、各大学のスカウトが目をつけた選手と直接交渉するために行方をくらますことがあり、翌日に大会を控える選手をあちこち探したりするなど、名門ならではの苦労がありました。

 
 写真写真:昭和20年代中頃のジャンプ選手たち
(『北海道余市高等学校スキー部75年の軌跡』より)