その100        サ ケ
 今年も余市川にサケが帰ってきました。今年のサケの漁獲は今のところ少ないようですが、9月末には採卵作業も始まっています。サケ・マスの増殖をになっている山田町の余市川サケ・マスふ化場は昭和45(1970)年の末に完成しました。  余市郡漁協が中心になって結成された後志地区サケ・マス増殖組合(代表組合・余市郡漁協)によって設立され、今年で42年を迎えています。当時の新聞記事には「団体では道内第一号」とあります。
 サケのふ化事業の始まりは、明治時代、伊藤一隆によるアメリカ合衆国での調査がきっかけとなりました。伊藤については『北海道鮭鱒ふ化放流事業百年史』に詳しく書かれています。安政6(1859)年に東京に生まれた伊藤は、明治5(1872)年に東京にできた開拓使仮学校に入学、同13年に札幌農学校の一期生として卒業しました。開拓使に入庁したあとは七重勧業試験場に勤務し、北海道庁になってからの初代の水産課長になりました。明治19(1886)年1月、英語に堪能だった伊藤は渡米を命じられ、肥料製造や水産加工、漁法や漁獲物の陸揚げ方法、魚類の繁殖方法と資源保護がどのようなものかを学びました。
 伊藤が訪れたのはアメリカ東部のメイン州やミシガン州で、ふ化場を視察したときに捕獲したサケから採卵してふ化させる方法をはじめて目の当たりにしました。また、そこで出会ったC・G・アトキンス場長に直接教えを請い、施設の設計を学び、ふ化に使う器具類を持ち帰ることができました。伊藤が学び、日本に持ち帰った成果は「米国漁業調査復命書」として報告され、ふ化場建設への努力がはじまります。北海道庁水産課に戻った伊藤を中心として、明治21年、千歳郡烏柵舞(うさくまい)村(現在の千歳市)に官営の千歳中央孵化場が創設され、それを皮切りに道内にふ化場が相次いで建設されました。
 余市川はサケの好漁場として知られていましたが、明治27年には既に鮭鱒保護河川として指定されています。後志管内では他に尻別川、朱太川、堀株川、利別川、古平川が指定されていました。
 余市川のサケ増殖は、昭和43(1968)年、千歳市のふ化場からサケ稚魚を輸送して放流したのが始まりでした。昭和45年11月の新聞報道を見ると、「サケの宝庫」だった余市川が昭和になってから漁獲が激減、同25年頃にはほとんど姿がみられなくなったとあります。稚魚を放流した同43年に余市川でとれた親魚は52尾しかありませんでした。危機感を募らせた余市郡漁協はすぐに行動を開始しました。同43年に160万尾、44年に110万尾、45年には200万尾の稚魚を放流しました。結果はすぐにあらわれ、45年から漁獲量が目に見えて増え出しました。
 完成したふ化場は新聞によると、200uのふ化室、77uの飼育池が4面、46uの循環池などが整えられました。建設当初は余市川からの導水を利用しましたが、後には地下水も併用されるようになりました。最新の設備を備えたふ化場と、着々と成果をあげていた放流事業は明るいニュースで、前掲の新聞記事には「町や観光関係者たちもこの朗報に大喜び。余市川を石狩川に代わるサケの名所にしよう」といった声も見られました。
 
 
    ▲写真:完成したサケ・マスふ化場(昭和46年1月7日の新聞記事から)