−その8− 「余市川の氷」の巻
 余市川では昭和30年代まで天然の製氷が行なわれていました。昭和32年の新聞記事を見ると、暖冬のなかやっと1尺(約33p)の厚さになった氷を切り出す作業がはじまったことが報じられています。この製氷は田川橋の近くで行なわれ、魚の冷蔵用に用いられました。

 天然の製氷とはいっても自然に結氷した氷をそのまま切り出すのではなく、あらかじめ氷をつくる場所を決めて区切り、水路を整え、水をかけ、除雪を行ないながら氷を厚くしてから切り出すという手間をかけて作られました。
 製氷の一連の作業については『ひびけ』(昭和61年刊行)に「回想・コオリッパ」と題して詳しく記されています。そこに紹介されている製氷場は、沢町にあった本多氷店によってヌッチ川の沢町小学校裏手のあたりに設けられたもので、地域の子どもたちはそこを氷場(コオリッパ)と呼んでいました。
 製氷場はヌッチ川から樋で水を引き込んだ長さ約100m、幅約20m、深さ約1.2mの大きなプールのようなもので、傍らには氷を管理する人達が夜通しで番をする道具置き場を兼ねた小屋があり、中にはダルマストーブが置かれていました。

 製氷作業は12月にはじまりました。製氷場に氷が薄くはると岸から30pほど氷を離して浮いた状態にしておきます。氷の上に雪が積もらない様に見張り、吹雪ともなれば休む間もなく氷から雪を落とす作業を続けました。
 2月になって厚さ1尺を超えた氷が出来あがると、それを縦横1mほどの大きさに切り出して馬ソリで氷倉に運んで貯蔵し、また新しい製氷にとりかかります。このコオリッパで作られる氷は大変きれいな仕上り具合だったそうです。
▲氷の切り出し作業(昭和30年代)

 川や池を利用した製氷は、札幌市中島公園の中島プールや函館市五稜郭のお堀の氷が知られています。中島プールは大正時代にもともと製氷用に作られた池を夏の間プールとして利用していたものです。
 五稜郭で製氷された氷は「函館氷」「竜紋氷」と呼ばれ天然製氷の代名詞として全国にその名が知れ渡るほどで、創業者の中川喜兵衛は、医療用や食品冷蔵用として高価だった輸入氷に対抗するべく施行錯誤を重ねた末、五稜郭での製氷に成功し、明治5(1872)年に販売体勢が整って氷1斤(600g)4銭で売り出しました。

 手間のかかる天然製氷は明治30年代には機械製氷に代わりはじめますが、余市川の製氷は昭和30年代ころまで続けられていたようです。今では聞けなくなった氷を切るノコギリの音は、ギーシ、ギーシと「耳の底に残るような冷たい音」だったそうです。