−その6− 「余市川のアユ」の巻
 北海道内のアユは留萌以南の日本海側や噴火湾の一部に生息し、主として北海道南部で捕獲されています。余市川はアユの生息する北限の川として知られ、名産の一つとなっています。
 余市川でのアユの生息は明治27、28年頃には知られ、付近住民の副業として捕獲されていました。
 大正7年頃には乱獲によってか生息数が激減し、余市郡漁業協同組合(当時)は人工ふ化場を設けてふ化事業をはじめ、同14年には余市川一帯の漁業権を得て、大正から昭和の初めにかけてアユの漁獲高は安定しました。 
 時代は下って昭和30年代の余市町は観光事業に力を入れ始めた頃で、広報よいち9月号で紹介した「全町公園化計画」は、町内の3箇所(茂入海岸、余市川、シリパ山)を観光拠点の拠点として整備する計画で、果樹園と一体化させたアユ場周辺にも脚光があてられました。
 昭和33年には余市川開発の期成会が設立され、同36年には余市町による観光開発対策案がまとめられました。同年8月には、アユ見橋が朱塗りの橋になり、あずま屋3棟、朱塗りの灯ろう20本と休憩用のベンチが置かれて整備されました。この新名所ではアユ料理の他、ジンギスカンもふるまわれました。 
 軌道にのったアユ場の観光事業でしたが、同37年の水害とそれにともなう河川改修工事によってアユの漁獲量は大きく落ち込みました。
 その後、関係者の努力によって琵琶湖産の稚魚が放流され、昭和39年6月には「名物復活、余市川のアユ」の新聞報道がありました。
 この事業は本道初の琵琶湖産アユの放流試験で、北海道、地元漁協、余市町出身の松平道議会議員が水産庁と折衝を重ねて実現したもので、背景には滋賀県側が稚魚の新市場を求めていたことや、滋賀県水産試験場の協力がありました。
▲当時のあゆみ橋
 昭和39年6月9日午後4時、米原駅で貨車積みされた稚魚5万匹は、関係者に見守られながら北陸まわりで余市川を目指しました。米原から函館までは鉄路で、函館からはトラックによって陸送され、余市川筋の大江橋に到着したのは6月12日午後2時のことでした。
 こうして以前から行われたいた人工ふ化とあわせて復活した余市川のアユでしたが、この成功を受けて翌年には、余市川のほか、厚田川(石狩)、利別川(桧山)、ニカンベツ川(日高)への放流もおこなわれました。
▲あずま屋と灯ろう