−その5− 「モイレ桟橋」の巻
 古平・積丹方面へ向かう国道が整備される以前、余市町とそれらの地域を結ぶ船の往来が人々の生活を支えていました。
 「余市小史」によると、余市川河口から古平・美国(積丹町)へ向かう定期航路の就航は大正2年にはじまり、大正7年には甲谷定次氏により発動汽船の富丸(32トン)が、5年後の大正12年には小原楠次郎氏による蒸気船の末広丸(24トン)が運行していました。両者は運賃の値下げや、手ぬぐい、ハンカチのプレゼント、余市駅から船着場までの客馬車による送迎などで集客を競ったライバルでしたが、昭和6年に協同で瑞廣丸、外濱丸の2隻の船を導入し、余市・美国間に1日3回の定期航路がありました。
  
 この定期航路は、昭和11年に林孫蔵氏により設立された余市汽船株式会社により一本化されます。
 同社が就航させていた金華丸(30トン)、こう竜丸(38トン)は積丹半島各地域の住民の足としてだけでなく、ニシン漁やリンゴの袋かけの時期には働く人達の足として利用され大混雑となりました。
 昭和30年代初めに作られた余市汽船のパンフレットから余市・美国間の時刻表を見ると、余市を午後1時に出発した船は美国に午後2時20分に到着し、同区間の運賃は150円となっています。
 モイレ桟橋は、現在のモイレ山山麓の余市川河口付近にあった長さ約60m、幅約3mの大きさのもので、乗船に便利なようにと大正13年頃に小原が建設した木造の桟橋です。そこにはトロッコで荷物の運搬を行えるようレールも敷かれていました。
▲モイレ桟橋の様子(写真提供:齋藤邦夫氏)
 昭和20年代以降、桟橋と余市駅との乗客には「馬動車」が活躍していました。これは昭和22年頃からフランスで量産されていたルノー社製の4CVという自動車を再利用し、エンジン部分を取り外して馬に引かせたものでした。
 積丹方面への定期航路は観光船としても利用されますが、昭和33年に2級国道が完成したことにより廃止され、余市汽船も翌年に解散します。
 
▲昭和20年代馬動車と余市駅(写真提供:斉藤写真館)
 役目を終えたモイレ桟橋は老朽化が進み、冬のシケや台風の被害を受けて、やがてなくなりました。桟橋付近にはアワビやガンゼ(ノナよりも多かった)、ナマコがとれる岩場があり、素潜りで狙う子ども達の絶好の遊び場だったそうです。