−その20− 「フゴッペの発掘」の巻 その1
 フゴッペ洞窟は、考古学史上の大発見といわれています。昭和25(1950)年8月に発見され、同26、28年の発掘調査を経て国指定史跡となって50年余りが過ぎました。タイムカプセルのように埋もれていた洞窟の発掘作業には、当時の札幌や小樽の高校生たちが深く関わっていました。
 今回は、彼らを指導しながら写真撮影や計測などを担当された桐谷賢一氏(札幌東高教諭、当時)から町内の方に寄せられたお手紙に記された発掘当時のエピソードを紹介します。
発掘作業の様子(昭和26年頃)
 桐谷氏は大正14(1925)年のお生まれで、戦後、教員となり、郷土研究部の指導をされました。氏が札幌東高に転任するまで指導した札幌西高郷土研究部は、フゴッペ洞窟発見者の兄の大塚以和雄氏(後に高校再編で札幌南高へ)が所属していた総勢20名ほどのクラブで、『古今』という考古学に関係した雑誌を刊行して注目を浴びていました。
 昭和26年、同28年の発掘は夏に集中して行われます。北大の名取先生が団長となり、専門の研究者が結集して始まった作業のうち、もっとも大変な土砂運搬を高校生たちが担いました。
 札幌や小樽から自発的に参加した生徒たちは、現場にテントを張って寝泊りしながら作業を続けます。戦後の物資不足がまだ続いており、高校生には旅費はもちろん食費の支給もなく、近くで大量に買い求めた身欠きにしんをおかずにしながらの自炊だったそうです。
 途中、作業は何度か困難に見舞われます。ある時は、「天の岩戸」のように洞窟入口のほぼ半分をふさいでいたタテヨコ2〜3mの巨大な岩塊を取り除かねばならないことがありました。そこで余市市街から呼ばれた石工さんは石ノミと玄能(げんのう)だけを持って現われたので、一同はがっかりしたそうです。
 彼は周りをぐるぐる回って石の表面を観察し、やがて1点に狙いをつけて石ノミをあてて玄能を振り下ろしました。するとその岩塊が見事にふたつに割れ、更にどんどんと細かくされてゆき、職人の技に驚嘆の声が上がりました。
 また炭鉱夫も現場に呼ばれました。当時、洞窟山側の函館本線には蒸気機関車が走っており、列車の通過する振動が洞窟内部に伝わってきたので、落盤を防ぐために炭鉱の坑道のように丸太が組まれたのです。これにより安全に作業を続けることが出来るようになりました。
 炎天下の中、様々な苦労を乗り越えながら発見された土器や石器は、新聞紙に丁寧に包まれ、縄で縛られて、墨書で情報が書き入れられました。また壁面に刻まれた刻画も、一度だけ油粘土を押し当てることが許されたので、その粘土型を利用した石膏型が120個制作されました。これらの諸資料(フゴッペ洞窟に展示中)はその後、北大人類学研究室に保管され、後に北海道開拓記念館に寄贈されています。