−その17− 「リンゴ」の巻
 今から126年前、山田村にリンゴが実りました。今回は、町民の多くがご存知の余市リンゴのはじまりについてです。
 余市で初めて実ったリンゴは最初、19号、49号と番号で呼ばれたアメリカ産の品種でした。明治5(1872)年、北海道開拓使はアメリカミシガン州からリンゴ、西洋なし、ぶどうなどの果樹の苗を輸入し、七飯開墾場(官園)で育てた後、同8年に札幌、有珠、余市など道内各地に苗木が無償で配布されました。余市へは同8年に500本が各戸に配布されましたが、それらを受け取った人たちはあまり関心を示さなかったといいます。
 4年後の同12年には、会津藩士であった赤羽源八宅と金子安蔵宅の庭先のリンゴが遂に実りました。赤羽宅からは19号6個が、同じく金子宅から49号7個が収穫されました。
 翌年もリンゴは結実し、『余市小史』によると1本の木から50kg弱ほども収穫できるようになり、札幌で開催された農業博覧会に出品され好評を博しました。リンゴ1貫目(3.75kg)で白米4升ほどのよい値段で取引されたリンゴ栽培は徐々に軌道に乗り出しました。
 リンゴの名前は19号が「緋の衣」、49号が「国光」と名付けられました。「緋の衣」は幕末に京都守護職となった会津藩主、容保公が孝明天皇から頂いた「緋の御衣」(緋色の布)にちなんだものでした。
 容保公は朝廷の伝統的な権威をかかげて弱くなっていた幕府の再強化をはかる公武合体運動を進め、孝明天皇もそれに賛成の立場をとっており、「緋の御衣」の赤い色は天皇への忠誠の証であり、会津藩士の誇りの色といえるものでした。
名産 余市リンゴのラベル

 しかし、戊辰戦争に敗れた会津藩は一転、逆賊の烙印を押され、江戸での謹慎をへて200戸余りの藩士団と家族らは開拓のため、北海道(オタルナイ)に上陸します。当初は樺太移住が予定されていましたが変更となり、移住先が決まらないまま1年半もの間オタルナイに滞在を余儀なくされます。

 その後、開拓次官黒田清隆の力によって余市への入植が決まり、開墾が始まりましたが慣れない作業に苦難の連続でした。明治4年の入植から8年後に実ったリンゴの赤い色に、「緋の御衣」を重ねた入植者達の胸中に去来したのはどんな思いだったのでしょうか。